1ー①



 本名は一応あるけれど、その名前で呼ぶ人間はほとんどいないから、あってもあまり意味はない。かわりに、ゲームやアニメの趣味しゅみ 仲間の間では『マルコス’55』とハンドルネームで呼ばれていた。ボク自身、その名前のほうが本名よりも馴染なじみがある。名前なんて、ただ、他者と自分を区別する役割のものでしかない。ボクはそう思っている。


 今も、オタク仲間と集まっているけれど、メンバーの本名をボクはだれ一人知らなかった。みんなもボクの本名を知らない。ハンドルネームで呼び合っているからなんら問題ない。

 それぞれのプライベートなことは一切いっさい知らないけれど、詮索せんさくしようとするやつはいない。石油王だろうと、怪盗かいとうだろうと、ニートだろうとボクらの間では関係なかった。

 共通しているのは、ここにいる全員が『魔法まほう少女リリカルルカ』というアニメの熱烈ねつれつなファンであり、全員がそんな自分自身にほこりと信念を持っていること。そして、持てる力と時間と資金をつぎ込み、全身全霊ぜんれいで『魔法少女リリカルルカ』をしているということだ。

 ボクももちろんご同類ってやつだ。オレンジ色の猫耳ねこみみパーカーの下には今日もしっかりと愛してやまないリリカちゃんのTシャツを着ている。これは初めて行ったイベントで購入したお気に入りのTシャツだ。

 これがボクにとっての正装だから、今誰かの結婚けっこん式に招かれてもこの恰好かっこうで行くし、何かの授賞式にだって堂々と行くだろう。幸いなことに結婚式をするような知り合いは今のところいないし、授賞式の連絡れんらくもない。

 つまり、何が言いたいかというと、ボクらはおたがいのことを何にも知らないけれど、とりあえず『魔法少女リリカルルカ』を愛する仲間同士ってことだ。SNSで連絡を取り合ったり、一ヶ月に一回くらいは、こうしてオフ会をしたりもする。

 良くも悪くも互いに無関心なこの緩慢かんまんな空気が、ボクはきらいではなかった。みんな、『魔法少女リリカルルカ』の話しかしない。盛り上がることもあるし、特に新しい情報もなくアニメの検討会で終わることもある。それもなければ、各自気ままにスマホをながめたり、ゲームをしたりと時間をつぶして過ごしていた。

 先週のアニメにチラッと出てきた新キャラについてあれやこれやと予測し合ったところで、飲み物も話題もきてボクらはスマホを見る。

 今は平日の午後だ。喫茶店きっさてんにいる客はボクら四人のほかに、カウンターに座っている常連客のおじいさんが一人。窓の外に目をやると、ランドセルを背負った小学生たちが集団下校をしている。ボクはテーブルに頰杖ほおづえをつきながら、ほとんど残っていないクリームソーダをズッとすすった。

「早くイベントのチケットの当落が出ねーかな?」

 口を開いたのは、ボクの向かいにあしを組んで座っていたチャラ男だ。ボブのかみを後ろで結んでいて、耳にも指にも首にもシルバーのアクセサリーをつけている。

 黒いオシャレジャケットを羽織っているイケメンだけど、その下にルルカちゃんTシャツを着ているあたり間違いなくボクらのお仲間で、『イサム』というハンドルネームだ。

「来週だよね。今度のイベント当選したら絶対、リリカちゃんのコスするよ、あたし。前回やろうと思ったのに、落選しちゃってできなかったから。今度は絶対当選する。意地でもする〜っ! 当選しなくてもコスはする〜っ!」

 きやしそうにこぶしを縦にっているのは、『ミミカ』さんだ。黒のワンピースと黒のブーツという服装で、前髪にリリカちゃんカラーのメッシュをさりげなく入れている。

「ミミッチのリリカちゃんコス……いい。すごくいい……」

 メガネ男子の『カッキー』君が、大盛りナポリタンを口いっぱいに頰張ほおばりながらボソッとつぶやく。まだ肌寒はだざむい季節だというのにTシャツ姿だけど、サイズが合っていなくて小さいため、真ん中にえがかれているリリカちゃんとルルカちゃんのイラストが目一杯めいっぱい横にびていた。

 ナポリタンのソースでよごれないように白い紙のナプキンをしっかりつけているのは、紳士しんしのたしなみらしい。

「本当にそう思う? あたし、リリカちゃんみたいに小さくないし、かわいくもないし、身長も一八〇センチはあるし、似合わないって思われないかな……」

 不安そうに両手をにぎりながら、ミミカさんはカッキー君にズイッと寄ってたずねる。

「うん……ミミッチはかわいい……僕はそう思う」

 カッキー君はナポリタンのオレンジ色のソースをたっぷりと口の周りにつけたまま、しっかりとうなずいた。ミミカさんの目がわかりやすくかがやき、目の中にハートマークが見えそうだった。

「カッキー君がそう言ってくれるなら、あたし頑張がんばるね! だから……あの……カッキー君、怪人かいじんトルネードジャガイモ男爵だんしゃくのコスを一緒いっしょにしてくれるとうれしいな……っ!! あたし、衣装作るから。それでねっ、一緒に写真撮ってほしいの!」

 モジモジしながらミミカさんが言うと、「うんっ、いいよ」とカッキー君は快諾していた。

「……君らさ、もしかして付き合ってんの?」

 スマホから視線を上げたイサム君が、二人をあやしむように見る。

 ミミカさんはカッキー君を見てから、「ううんっ、付き合ってないよ!」と首を横に振って否定していた。けれど、視線が泳いでいるうえ、首から上が赤くなっている。

「まあ、いいんだけどさぁ。全然、羨ましくないから! 俺にはルルカちゃんがいるし〜? 注文してた限定フィギュアも来月届くし~? そういえば、マルコス君さ。リリカちゃんのまくらもう手に入れた?」

 イサム君がボクのほうに顔を向けてきく。ボクは「もちろん!」とニンマリして答えた。ミミカさんがこしかせて、テーブルから身を乗り出してくる。

「その抱き枕って、昨日入荷したリリカちゃんとルルカちゃんの特大抱き枕のことだよね!? マルコス君、もう取れちゃったの!?」

「オープン前に行ったのに、抱き枕お目当ての人がけっこう並んでたからね。早めに取っておかないと、なくなりそうだと思ってさ」

 抱き枕を取ろうとしていた人たちが、クレーンゲーム機の前で悪戦苦闘あくせんくとうしていたのを思い出す。

「うわあ、マジかよ! 俺、完全に出遅でおくれてんじゃん。ルルカちゃんの抱き枕、残ってなかったら俺のたましいが落とした卵の殻みたいにくだけ散る!」

 イサム君が頭をかかえて言う。

「それは、大丈夫だいじょうぶだと思う……僕も昨日、挑戦ちょうせんしてみたけど、かなり難しかったし」

 ナポリタンを食べているカッキー君を、ミミカさんが「えっ!」と見た。

「カッキー君も挑戦してみたの!?」

「うん……ミミッチのために、リリカちゃんの抱き枕を取ろうと思って。でも、僕には無理だったよ。ごめん、ミミッチ」

「そんな……カッキー君っ! その気持ちだけでも嬉しいよ!」

 カッキー君はキリッとしたイケメンの顔になっているし、ミミカさんの目は感動したようにうるんでいる。すっかり二人だけの世界に没入ぼつにゅう中だ。

「マルコス君……俺のために、ルルカちゃんの抱き枕取ってくんない? 資金はもちろん、俺が出すからさ……いくらでも」

 イサム君が「この通り!」と、拝むように両手を合わせる。

「んー……いいよ。ボクも帰りにゲーセン寄るつもりだったし」

 抱き枕は一つゲットしたけど、やっぱりもう一つ手に入れておきたい。

「あたしも行っていいかなぢ あの……頑張って挑戦してみるから!」

「ミミッチのリリカちゃんは、僕が……取る!」

 拳を握ったカッキー君の全身から、静かなやる気がみなぎっている。

「それじゃ、みんなで行こうよ」

 ボクは立ち上がって、ニッコリと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る