中編

「おはようございますお嬢様、昨晩はよく眠れましたか?」


 その声に目を開ければ、ちょうど紳士が入ってくるところだった。昨日と同じ格好をした紳士は、全く同じテンポで歩いてくると口を開いた。


「それは良かった。昨晩飲んだハーブティーのおかげですね。キャシーの郷里で古くから伝わるレシピだそうですよ」


 昨日と寸分たがわぬセリフに、ぼんやりとしていた頭がクリアになる。


「実はほんの少しだけ赤ワインが入っていたのです。キャシーに言わせれば、それがよく眠れる秘訣だそうですよ。数的程度ですし……」


 紳士の言葉を最後まで聞くことなく飛び起き、昨日乱雑に脱ぎ散らかしたはずのピンクの靴をつま先で探すが、空を切るばかりだった。あるべき場所にない代わりに、靴は紳士の手元にあった。

 裸足のまま紳士の隣をすり抜け、部屋から出る。一日何も食べていない胃が空腹を訴えるが、構っていられない。今すぐにでも、この気味の悪い屋敷を脱出しなければいけない。


 階下の玄関を確認し、今度こそは間違えないようにと慎重に歩を進める。昨日よりも早い時間のため、まだメイドたちが働いていた。彼女たちの脇をすり抜け、玄関へと向かう。今度は絶対に間違えていないという自信があった。それなのに、玄関を見つけることは出来なかった。

 もう一度上階に行き、玄関の場所を記憶に刻み付けて階段を下りる。

 一度やってダメならもう一度、それでもダメならまた最初から。何度繰り返しても、なぜか玄関にたどり着くことは出来なかった。


 いつの間にか屋敷には夜が迫っており、蝋燭に明かりが灯っていた。さすがに一日以上何も食べていないと、体力の限界だった。

 足を引きずるようにして食堂に入れば、テーブルには豪華な料理が並んでいた。光沢を帯びた豚の丸焼きに、淡い黄色のスープ。真っ白なパンはふわふわとしており、深く息を吸い込めば温かな香りが食欲を刺激した。

 今もメイドたちと紳士は、空っぽの席を愛しそうに見つめている。


「今年は南方の葡萄の出来が芳しくなく、北方のほうが甘く濃厚な味になっています」


 紳士が葡萄ジュースをグラスに注ぐ。すでに満杯だったため溢れ、テーブルクロスを赤く染め上げるが、紳士は気にすることなく注ぎ続けている。

 次第に見慣れつつある異様な光景に、もしあの椅子に座ったら彼らはどんな顔をするのだろうかという疑問が頭をもたげる。

 空腹による思考低下は、どうにでもなれという投げやりな気持ちを引き連れてきた。


 悲し気に鳴るお腹をさすり、席に座るとパンに手を伸ばした。

 周囲には目を向けずに、パンを口に詰めて豚肉にフォークを突き刺す。スプーンを使わずお皿から直接スープを飲み、表面張力で盛り上がるジュースに口をつける。

 零れるのも構わずにグラスを傾ければ、ジュースが口の端から流れ、胸元を赤く染め上げた。


 思わず眉を顰めたくなるような行儀の悪い食べ方だった。

 叱責の声が聞こえてくるかもしれないと危惧していたが、隣に立つ紳士や背後のメイドたちに目を向けても視線は合わない。どこか遠くを見るような曖昧な眼差しで、ここにはいない誰かを見ているようだった。

 思い切り食べ散らかし、膨れたお腹をさする。コック帽の男性が最後にチョコレートケーキを持ってきたが、すでに胃は満杯で入る余地がなかった。


「こちらのチョコレートの産地がどこだかお分かりになりますか?」


 男性の言葉を無視しで椅子から降り、部屋へとつま先を向ける。

 満腹になれば、眠気が襲ってくる。今日は一日歩き通しだったため、疲れ切っていた。

 ベッドに倒れこみ、意識を手放す。途中で紳士が入って来た気配と共に爽やかなハーブの香りを感じたが、目を開けることは出来なかった。




 次の日の朝も、紳士は同じ時間に入ってくると同じことを言い、同じ行動をとった。

 視界に入って声をかけても彼らは何の反応も示さないが、体に触れるとすさまじい力で振りほどかれた。

 逆に考えれば、体に触れない限りは、彼らの存在を気にすることなく好き勝手に行動できた。


 クローゼットから鞄を取りだし、朝食のパンとジュースを詰め込んで屋敷の中を歩き回る。あちこちの部屋をのぞき、屋敷で過ごす人々の生活を垣間見る。

 キッチンの隅で居眠りをする料理人に、噂話に花を咲かせるメイドたち。音楽が流れてこない音楽室では、金髪の美しい女性がピアノの横に座り、虚空に向かって熱心に講義をしていた。

 彼らの生活は、機械のように毎日変わらなかった。行動もセリフも全く変わらず、見ているうちに自然と覚えてしまうほどだった。

 毎日時間が許す限り屋敷の中を見て回っているうちに、大体の使用人たちの動きとセリフを覚えてしまった。

 繰り返される日々に飽き、いつしか歩き回ることをやめ、自室から出ることすらなくなっていた。

 広いベッドに寝そべり、ボンヤリと思考を巡らせる。


 その場に“私”がいてもいなくても、彼らの日常は進んでいく。

 彼らは彼らのルールで動いており、そこに“私”がいる必要はない。

 けれど確かに“私”は必要とされているはずなのだ。

 だって世界は“私”がいることを前提として動いているのだから。

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