世界は透明なルールで回っている
佐倉有栖
前編
コンコンというノックの音に目を開けると、見知らぬ天井があった。
眼が眩むほどに豪華な天井画には女神と天使が描かれており、無表情でこちらを見下ろしていた。女神の手元から垂れさがるシャンデリアには短くなった蝋燭が何本も乗っており、そのうちの一本は溶けた蝋が床へと滴り落ちる途中で固まっていた。
もぞもぞと起き上がり、自身の手を見つめる。やけに小さな指はふっくらとしており、綺麗に磨かれた桜色の爪がついていた。
「おはようございますお嬢様、昨晩は眠れましたか?」
良く響く声とともにドアが開き、身なりの良い紳士が入ってきた。
綺麗に撫でつけられた髪は色の抜けた銀色で、気難しそうな眉間のシワは深い。一見するとかなり年配のように見えるが、曲がることなく伸びた背筋と透き通った深い緑色の瞳には若々しさがあった。
紳士は革靴の踵を鳴らしながら近くまで歩いてくると、こちらが何かを言う前に口を開いた。
「それは良かった。昨晩飲んだハーブティーのおかげですね。キャシーの郷里で古くから伝わるレシピだそうですよ」
「あの、すみません。ここはどこですか?」
意を決して尋ねる。声は自分のものとは思えないほど甲高く細かった。
「実はほんの少しだけ赤ワインが入っていたのです。キャシーに言わせれば、それがよく眠れる秘訣だそうですよ。数滴程度ですし、ハーブに負けて味なんてほとんどしなかったとは思いますが、お嬢様は気づかれましたか?」
紳士は優しい笑顔でそう言うと、恭しくベッドサイドに跪きピンク色のリボンがついた靴を虚空で上下させた。手を放せば重力に従ってボトリと落ち、二足の靴がひっくり返る。
「さすがはお嬢様です。赤ワイン独特の渋みを感じられたのですね。それでは、問題です。朝食は何だと思いますか? ヒントは十月です」
「あの……」
「素晴らしい! さぁ、焼き立ての美味しさが失われないうちに参りましょう」
何もない空間に向かってにこやかに語り掛ける紳士に恐怖を感じながらも、訳の分からない状況への答えを求めて彼の袖口を掴んだ。
「あの、私の声聞こえてますか?」
袖をつまんで引っ張れば、凄まじい力で振り払われた。穏やかな物腰と口調からは考えられないほど強く払われた手は、赤く染まっていた。
「朝食後は歴史学の先生がお見えになります。昼食の後にはピアノの先生が……」
見えない誰かをエスコートしながら、紳士が部屋から出て行く。音もなく閉じられた扉は遮音性が良く、廊下の音は聞こえなくなった。
呆気にとられつつも、彼の後を追おうとベッドからはい出せば、裸足のつま先がヒンヤリとした冷気に触れて縮こまった。無造作に投げ捨てられた靴にソロリと足を入れれば、ピッタリと収まった。
おぼつかない足取りで扉まで歩き、高い位置にあるドアノブに手をかける。
赤絨毯の敷かれた廊下には、高そうな花瓶や絵画が等間隔に並べられており、今しがた摘んできたばかりと思しき花を手にメイドたちが忙しそうに立ち回っていた。
「すみません、お尋ねしたいことがあるのですが」
近場にいた一人に声をかけるが、聞こえていないのか視線を向けてくれさえしない。目の前で手を振っても、透明人間になってしまったのかと錯覚するほど反応がない。
誰か一人でもこの状況を説明してくれる人はいないかと屋敷内を歩き回っているうちに、ふわりと良い香りが鼻孔をくすぐった。焼き立てのパンの香りに、お腹が音を立てる。空腹を訴える胃をさすり、そっと食堂を覗き込んだ。
パーティーでもできそうなほどに広い食堂は、ガランとしていた。隅のほうにメイドが何人か立ち、先ほどの紳士と共に朝食がセットされた無人の空間を見つめている。その顔は皆微笑んでおり、慈愛の眼差しをしていた。
異様な光景に腕が泡立つが、恐怖よりも食欲が勝った。音を立てないように細心の注意を払いながらテーブルの下を這いつくばって近づくと、パンの入った籠に手を伸ばした。
指先が一瞬だけ籠に触れたが、コック帽を被った男性が取り上げてしまった。
叱られるものと思い全身に力を入れるが、男性は無人の椅子の上を見据えたまま笑顔で籠を掲げた。
「お嬢様はいつも綺麗に食べてくださるので、作り甲斐があります。でも、無理はなさらないでくださいね、食べきれないときはどうぞ我々に気を使うことなく残してください」
籠から落ちたパンが、床の上で跳ねる。
落ちる前に掴めた一つを胸に抱き、そっとテーブルの下から周囲をうかがう。一同の視線は椅子へと向けられており、誰一人としてこちらを気にする者はいない。
「ありがとうございます、そう言っていただけて光栄です。昼食も腕によりをかけて美味しいものをお作りしますね」
「さぁお嬢様、歴史学の先生がお待ちですよ」
紳士が空中に手を差し伸べ、透明な誰かをエスコートしていく。
壁に並んだメイドたちは紳士が部屋から出て行ったのを確認すると、下げていた頭を上げて手の付けられていない食卓を片付け始めた。
メイドたちは、上に物が乗っていることなどお構いなしに扱っていた。
スープが皿から零れ、小さなケーキが床に落ちても気にすることなく踏みつけて歩いた。目の前で粉々になったケーキに、忘れかけていた恐怖を感じる。
持っていたパンを小さくちぎり、口の中に押し込む。口内の水分が失われているため飲み込み辛い。咀嚼するのもじれったく思いながらも何とか飲み込み、忙しく立ち動くメイドたちの足を見つめる。
何としてもここから脱出しなくてはいけないと、本能が訴えかけていた。
幸いなことに、すぐ下の階に玄関らしき立派な扉があることは確認していた。曲がりくねった廊下の中間に、階下へと続く階段があったのも覚えている。
この不気味な屋敷から脱出さえできれば、自分がどこにいるのかもどんな状況にあるのかもわかるだろう。
メイドたちが自身の役目を終え、食堂を後にする。
テーブルの上にはシミ一つない純白のクロスがかかっているのに、大理石の床には無残に踏みつぶされたケーキが落ちており、零れたスープが地図を描いていた。
極力気配を消し、物陰に隠れるようにして廊下を歩く。何人ものメイドたちとすれ違ったが、彼女たちの目は全く別の方向へと向けられており、こちらを気にするそぶりを見せる者は誰もいなかった。それでも、いつ何時後ろから声をかけられるかもしれないと、ビクビクしながら足早に階段を降りた。
階下も上階とさほど変わらなかった。複雑怪奇に折れ曲がり、蛇行する廊下には赤い絨毯が敷かれ、部屋へと続く扉の横には花瓶や絵画が飾られている。
すでにメイドたちが完璧に仕事をし終えた後のため、彼女たちの姿はない。
頭の中に屋敷の地図を作り、迷路のように入り組んだ廊下を歩く。
この先を右に折れれば玄関に出るはずだった。しかし、廊下はただ先へと続いているだけで、あの立派な扉はどこにもない。どこかで間違えたのかもしれないと道を引き返し、再度脳内に地図を描いて歩くが結果は同じだった。
適当に歩いていればそのうち見つかるだろうと気ままに歩いても、玄関にたどり着かないばかりか、いつの間にか自室の前まで帰ってきていた。
階段を上った記憶などないのに。
「それではお嬢様、お休みなさいませ。良い夢を」
そう言って、紳士が部屋から出てくる。手には空のティーカップがあり、何とも言えないハーブの香りを漂わせていた。気づけば屋敷内には濃い影が満ちており、ポツポツと置かれた蝋燭の炎が周囲をオレンジ色に染めていた。
ほっとする淡い光に吸い寄せられるように自室に入れば、一気に疲労が押し寄せた。体が鉛のように重たくなってくる。
薄いレース越しに差し込む月光に照らされたベッドが、優しく手招きをしている。
薄気味悪い屋敷から一刻も早く去りたい気持ちを、眠気が包み込む。乱暴に靴を脱ぎ捨てベッドに倒れこむと、そのまま深い眠りへと落ちていった。
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