安らかな夜
もうやけになって、酔っ払ったまんまお家を飛び出して、まだ透き通った季節の夜の下を走って、近所にある、桜並木の冷たい川に素足でそっと降りてみましたら、やっぱりわたくしはまだ二本足で、人間であることを突きつけられたのですけれども、それでも諦めが悪いものですから、川面に伸びる月の道へ脚を左右に動かして天を目指したのでございます。
そうしたら、その途中わたくしは何となしにただ泣きたくなって、頬を塩味で濡らして、唇を湿らして、泣くのに必死で脚をろくに動かしもせず、川の真ん中にぼうと立ちながら、ああ、ああ、とまるで言葉を知ったばかりの赤子のような具合に、ただただ泣き続けました。枯れるほど泣きました。
ひとしきり泣いて、さあ、さらに深くへ脚を運ぼうと思いましたら、急に足元で、ひらりと、何か柔らかいものが触れたのでございます。
一体何かしら。
そう思い、立ち止まって、細い月の光を頼りに川面をじいと覗いてみると、それは、魚の尾でございました。随分と美しい尾でございました。
その魚は、月明かりに鱗をきらりと光らせてから、もう一度わたくしの二本足を優しく撫でると、川を登っていかれました。もしかすると遡上の最中だったのかも知れません。
あのひらひら光る美しい尾が見えなくなるまで眺めていましたら、いつの間にか月が雲に遮られて、川面の道は途絶えておりました。泣きながらかき分けた水流も、口の中の塩辛さも、全てがなくなっていました。
しかしながらわたくしは、それを悲観することもなかった。
あれほど泣きたかった恐慌の夜が、少し柔らかくなっていたことに気がつきました。濡れた素足のまま、二本足のまま、わたくしは家路について、帰り道に足跡をつけました。心なしか向かい風もシルクのように心地よかった。
まだ、二本足でいるのも悪くない。そう考えると、再び月が顔を出しても、わたくしはここにいて良いのだと思え、ああ、今日は何と、何と安らかな、良い夜だろうと、子供のように安堵し、少しだけ、あのひらひらした魚の尾に、救われたのでございました。
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