第2話

 私は目を覚ました。ずいぶんと深い眠りに入っていたようだ。どうやら昔の夢を見ていたようだ。それはとても懐かしい夢だ。

 その夢は濃密な甘みを持っていた。春の気候のように生暖かく、気持ちのいいものだった。ずっとその温もりに触れてはいたいが、長時間それに触れられていると、溶けて消えていってしまうそんな危うさもある。しかし、これはとても色濃く、この私の乾ききった心を満たすには十分であり、私はその良さに酔いしれる気分だった。

 良い夢というのは残酷である。夢を見ている時は私の望む世界が広がっていて、私はその中の主人公だ。望むものが何でもある。だからここが現実であればいいと望む。しかし、それは所詮まやかしでしかない。そう。目を覚ますとそこには冷酷な現実が待っているからだ。天国から地獄に叩き落とされるのだ。

 私は心にポッカリと穴を開けられるのだ。言いようのない不安に襲われる。そして、心に大きな穴を開けられるのだ。削られ、抉られ、空洞を掘られる。そしてそれを巣にして居つくのだ。

 良い夢なんか嫌いだ。悪い夢も嫌いだ。嫌な思いを夢でもしなければいけないのはどちらも地獄と変わりない。どうせなら夢など見ない方がいい。

 でも、私は夢に希望を持っている。良い夢を見られるようにと期待して眠ってしまうのだ。



 あの日からカラが私の元に帰って来ることはなかった。最後に貰った花は、あの美しい姿が嘘のように萎んで枯れ果ててしまっていた。もう元の姿に戻らぬそれを私は今でも大事に保管していた。いつか、またあの美しさが戻るのではないかと、そんな馬鹿みたいな幻想を抱いて、そうして喪失感を背負っていた。

 彼女との想い出の場所だけは変わらないでいた。この場所だけ時が止まっているかのようだった。

 私の時も同じで、あの時のまま止まってしまっている。私はカラとカラとの想い出を風化させない為だけにこの今を生きている。それはどれほど耽美なものだろうか。しかし同時に虚しさもある。はたして私はこれでいいのだろうか。夢に生きる私ははたしてそれでいいのだろうか。



「何をしてるの?」

 私はガバッと勢いよく上体を起こした。眠気が一気に吹き飛んでしまった。

 私はいつものように花畑で寝そべっていた。大の字に体を広げ、呑気に欠伸をして、すがすがしいぐらいの青い空を見ていた。色々な形をした白い雲が空を浮いていてそれの動きを観察していた。やがて、睡魔が襲ってきた。私は手を組んで、それを枕の代わりにする。そして、ゆっくりと目を閉じた。そして夢の世界へ旅立とうとしたときだった。

 誰かが私に声をかけたのだ。私はおもわず飛び起きた。

「誰?」

 私はめをぱちくりさせる。そして、少女を見て言葉を失った。

「えっと……寝てたの? 起こしちゃってごめん」

 私に声をかけたのは私と同じぐらいの少女だった。だから、十五、六の女の子だ。少女は申し訳なさそうに、謝る。バツが悪そうに頬を掻く。

「カラ⁉」

 私の覚醒した頭は早く回転した。いや、実際はしていないのだろうが、そんな感じがした。私は勢いよく立ち上がり、少女に抱き付いた。そして、そのまま押し倒した。

「ち、ちょっと……何⁉ え? は、離してよ……!」

 少女は暴れる。困惑していた。

 私は少女の声を聞いて、ハッと我に返った。少女に抱き付くのをやめて、少女の顔をまじまじと眺めた。そうすると、少女はカラなどではなかった。面影はあったが、別の人であった。

「えっと……」

 今度は私がバツを悪くした。苦笑いをして、目線をそらした。込み上げてくる恥ずかしさに顔を赤くする。穴があったら入りたい、そんな気持ちだ。私は真っ赤に染まった顔を覆う。

「寝ぼけていたの。ごめんなさい」

「あ、うん……いいよ」

 少女は私の肩を軽く叩いた。笑って、許してくれた。

「カラって……誰よ?」

「えっと……私の大切な友達。その人に貴女が似ていたの。でも、寝ぼけていただけみたい。可笑しいわね。……フフ」

 私は微笑する。その笑いの中には様々な含みを入れた。

「その人は今どうしているの?」

「その人は……」私は目を伏せた。そして言い淀んだ。

「あ、ごめん。変なことを聞いちゃった?」

「ううん。大丈夫。でも、口にはしたくないわ。なんだか、認めてしまうようで」

 気まずい空気が流れる。少女はやってしまったという顔をしていた。

「そ、そうだ。自己紹介がまだだったね。私はランっていうの。ツワブキラン。あなたは?」

「私? 私はキキョウよ」

「へえ。キキョウっていうんだ。まあ、苗字はいいや。それで、あなたの事をキキョウって呼んでいい? 私の事もランって呼んでいいよ」

 彼女はランという名前らしい。彼女は明快な女の子だった。笑顔が似合っていた。そして、何ともまあ、珍しい格好をしていた。生粋の日本人の顔立ちはしているのだが、服装が西洋のそれに似ていた。私はランという少女に興味をそそられた。

 そもそも、ここに人は滅多に来ない。私がここに住み始めて来たことがあるのはカラのただ一人。だから、ランを含めて二人しか来ていない。

 私は人と関わることを二度としないと決めた。しかし、何故か、私はランと会話をする。そして、期待に胸を躍らせていた。

「キキョウって今時珍しいよね。袴っていうんだっけ? こんな格好する子は今時めったにいないよ。それに、髪も染めてんの?」

 彼女が私の髪の事と服装を言ってきた。私にとってはランのその格好そのものが異常に思えた。しかし、似合っていて可愛らしかった。

「えっと……私はずっとここに暮らしていたから、今下でどのようなことが起きているのかが分からないの。私にとってランの格好が珍しいのだけど、それが当たり前なの?」

「えっ⁉」とはあからさまにびっくりした顔をした。その顔はカラと同じようなものだった。「ちょっと待って。他に誰かと暮らしているの?」私は首を横に振った。「ひえ~。マジか。それは驚き。え、じゃあ、ずっと一人で? どのくらい?」

「それはもう忘れてしまったわ。人と出会ったのも随分と懐かしい事だし」

「そ、そうなんだ。寂しくはなかったの?」

「うん。……案外悪くない暮らしだわ」

「へえー。ま、まあ、あまりこの辺りは聞いちゃだめだね。よし。話を変えよう。うーんと、じゃあ、その髪は元からなの?」

「……変?」

 私は自分の髪の毛を触った。平常を保っていたが、内心はドキドキしていた。この髪を気味悪がられるのはもう散々だ。

「あ、地毛? それは珍しい。でも、今は青やら緑やらピンクやら、色んな髪をしている人がいるから。まあ、それはほんの一握りしかいないけど。でも、ちょっと驚くぐらいでどうでもいいかも」

「どうでもいいの?」

「うん。私も一回茶髪にしたし、気にすることではないよ」

「そうなの?」

 私はぱあっと明るくなった。そういう時代が来たのか、と嬉しく思った。でも、かといってこの山から下りる気などないけど。

「本当にこれを見ても何も思わないの?」

「うん。ああ、もしかして、それが理由で山に籠ってたの? 乙女だね。うん。ある意味凄い行動力だ」

 彼女は腕を組んで何度も頷いた。

「でも、ここは良い所だね。まさか、こんなにも花畑が綺麗で見晴らしがいい所があるなんて信じられないよ。ひょっとすると全部の花があるんじゃない?」

「そんなにはないわよ。そうね。昔はカランコエていう花があったけど、今はなくなってしまったわ」

 私は目を伏せた。

「へえ。そうなんだ。でも、そういうのを気にする必要もないぐらいここには沢山あるじゃん」

「ええ、そうね。沢山あるわ」

「この場所はキキョウのお気に入り?」

「うん。ここは私のお気に入りの場所よ」

 私はもう彼女に対して抵抗など感じていなかった。

「そうなんだ。ひょっとして私、邪魔しちゃった感じ? 立ち入られたくない秘密の場所?」

「まあ、秘密の場所ではあるわ。でも、滅多に来ない客人はもてなすわ。大したものはありませんけど」

「いやいや。この景色で十分お腹いっぱい。もう何も望みません」

「そう。ところで、どうしてここに?」

「うーんとね、息抜き。学校をさぼってどこか良い所探してたの」

「まあ。もったいないわ」

「うーん。面倒くさいんだよね。キキョウは……行ってない?」

「ええ」

「あれ? ああ……」

「それで……その学校をさぼってまでこの山に来たのは?」

「うん。ある言い伝えがこの山にあったから、真偽を確かめる為に、てね」

「……言い伝え?それはどのような言い伝えなの?」

「うーんとね、鬼が住む山として言い伝えられてたの。山から下りてきては嫁御や子供をさらう、とかね。近所のじいさんばあさんたちが子供の時にそう言われた、ってだけだからね。所詮は言い伝え。子供を脅かすために作った語り話でしかないよ。笑えるよ」

「……鬼、ね」

「ああ、キキョウの事ではないでしょ。老人世代が言っていた事だしね。私と同い年のキキョウがその言い伝えになるのはおかしいよ」

「それもそうだわね。でも、よくそう云われている所に行く気になったわね」

「言い伝えだとそうだよ。でも私はね、勘違いだと思うんだ。独り静かに山に籠る鬼は実は話し相手が欲しかったんじゃないかって。だから子供をさらうんじゃないかな? てね。だから、話し相手になってやろうじゃないか、と凄んでここにやって来たの。そうしたら、可愛い鬼がいたよ」

 ランは笑いながら私の頬をつついた。

「か、可愛い……?」

「うん。とっても。自然に住んでいた方が美容にいいのかな? 肌とかもちもちしてて気持ちがいいし。私より、可愛いじゃん。羨ましい~」

 ランは私の両の頬をつねった。そして、口をとがらせながら上下に振った。私はやめてよ、と腕を掴んだ。

「あはは」と、ランが笑う。私もつられて笑った。

 私たちは話をする。私はそれが楽しかった。私は人を避けているが、カラのおかげなのか、人に対する心の壁がやや薄くなったのかもしれない。でも、私はまだ人を完全に信用をしてない。まだ忌み嫌い忌み嫌われる、そういう関係である。私がこうやってランと話すのは、カラの面影を重ねているからなのかもしれない。

「暗くなってきたからそろそろ帰るね」

「えっ……?」

 陽は沈みかけていた。その時にランがそう言ったのだ。私の心がズキッと痛んだ。あの時の景色が重なり、わたしのこの痛い想いを加速させていた。

「もっと、話がしていたいけどさ。大丈夫。また来るから」

 私は何も言えなかった。胸の前に手を当てて、心臓の鼓動の音を感じているだけしか出来なかった。

 陽は赤く燃え盛っていた。まるで、この世の終わりみたいに。灼熱の地獄のように。辺り一面を真っ赤に染めていた。風が靡く。それがその火を遠くに飛ばして広げていくようだった。鐘の音が山中に響いていく。

 ランは私の手を握る。小さな手で柔らかいその手で私を包み込む。

「次も来るよ。いつになるか分からないけどさ、なるべくすぐに行くよ」

 ランは私から離れようとする。そのまま、帰ろうとするのだった。

 私は、一人がよかった。でも、この人の温もりをどうしてか離したくなかった。手放したくなかったのだ。この手から零れ落ちてしまうのを、消え去ってしまうのを、私は嫌だったのだ。恐怖でしかなかった。

 だから、私はランの手を強く握りしめた。行こうとする彼女を引き留めた。この場所にとどまらせようとしたのだ。

 彼女は困った顔をした。私は目を強くつぶった。変な子だと思われてしまったのではないか。厄介な子だと思われたのではないか、そういった不安が体に現れる。嫌な汗が流れる。手汗も滝のようにあふれ出る。私は気がつけば泣いていた。嗚咽を漏らしていたのだ。離れるのが嫌だった。

「キキョウの気持ちも分かるよ。ずっとここに一人でいたんだもんね。うん。でも、安心して。私は必ずここに来るから」

「そういうのは……信用、出来ない」

「うーん……。困ったな……」ランは困り顔で頬を掻く。目をつぶって低くうねりどうしたものかと思考を練っていた。「信用してほしいって言っても無理だよねぇ。なんなら指切りでもする?」

「そういうのでも、約束としては……」

「今日会っただけだから信用は薄いかもしれないけど、私は約束を守る事で有名なの。だから必ず、来るって」ランは白い歯を見せて笑った。「サプライズも期待しててね」

「さ、さぷらいず……?」

「まあ、わっと驚くようなことをしてあげる、て事。だからさ、ひとまず待ってて。すぐに行くから。ね? ホラ、指切り」

 カラは強引に私の手を取ると、小指どうしを結ばせた。そして指切りの歌を歌い、それで決着を無理やりにつけた。

「……」私は小指をじっと見つめる。細くて小さなその指にランの体温がまだほのかに残っていた。「……ええ。分かったわ」私は指を折りたたんだ。私はとうとう根負けする。「必ず、必ず来てね」そして、ランに必死に言うのだ。

「うん」

 私は不満そうな顔をする。顔が曇る。ランはそんなわたしを見かねてなのか、なにか思い至ったようで、いずこかへ走る。そして、花束を2輪持ってきた。黄色いパンジーの花だった。彼女はその1輪を私へ差し出した。

「じゃあ、これ。持ってて。お花を、お互いに持ってる。それで、私はこの花が枯れる前に必ずキキョウのところへ来る、それでどう?」

「うん……」

 私はあの時のカラと全く同じものを感じた。

「黄色いパンジーの花言葉はつつましい幸せ。私とキキョウとが出会えたこのつつましい幸せを思うようにしよう。そして、それをまた私会おう。それでどうかな?」

 ランは私の肩を持つ。そして、私を抱きしめるのだった。私はゆっくりと目を閉じる。そして、手を後ろに回した。私は、カラをランに重ねた。あの時のあの日のカラを。

 私はこの時間を堪能する。私の長い牢獄のような生活の時間に訪れたわずかな祝福をこの身に刻む。忘れぬように。

「それじゃあね」

 その時間はあっさりと終わってしまった。私は物足りなかった。でも、多くを望んではいけない。

 ランは手を振る。そして、消えて居なくなってしまった。

 きっと、この約束は果たされないだろう。でも、私は、このひと時を忘れない。ちょっとした淡く甘い出来事だけで私は生きていける。それだけで私は充足するんだ。

 私は渡されたパンジーの花を胸に当てた。

 私の時は止まったままだった。でも、また動き出したに違いない。またすぐに止まってしまうものだけど、私は少しでも進んでくれたのだからそれでいいと思う。

 私は小屋に帰っていく。またあの小屋の中に帰る。そこが私の居場所なのだから。


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