第1話

 もう、これはいつの話だろうか。ずいぶんと昔の話だけど、昨日の話と言われれば信じてしまいそうなほど近くに感じる。目を閉じればすぐそこにあの時の思い出がある。この閉じた瞳を開いたとしても同じ景色がそこに映るような。

 それは私の希望でもある。淡い期待のようなものだ。

 私は人を忌み嫌い、忌み嫌われていた。

 私は人里を離れ、山に身を置くことを決めた。そして、今いる場所を見つけた。ここは人が住んでいた跡があった。でも、それは昔のこと。しばらくそこを宿にしていたが、誰一人来なかったので、自然と私の家になった。食事は少し困った。なんの知識もなくいきなり山籠もりをしたためどうやって暮らしていけばいいのか戸惑った。だからどれも手探りだった。私の持てる知恵をふんだんに使って生活をした。一番難しかったのは火をおこすことだったが、なんとか慣れた。狩りもした。動物たちを殺してしまうのは心が痛んだが、それでも空腹には耐えられなかった。キノコ探しは少々苦労した。毒を口にしてしまった時、随分寝込んだ。今となれば笑い話になるけど。

 山の生活に慣れてきたとき、私はあの花畑で寝そべっていた。日向ぼっこをしていた。

 ウトウトと眠くなり、重たい瞼を閉じようとしていた時だった。私は彼女と出会った。

「何をしているの?」

 私は目を開ける。そして、彼女の存在を遅れて認識した時、私は思わず悲鳴をあげて飛び起きた。

 彼女はそれに驚いてしまったようで、同じく悲鳴をあげて、しりもちをついた。

「え? え?」

 彼女は困惑していた。私もそうだった。互いに硬直した。見合った。

 沈黙が訪れる。鳥が羽ばたいた。風が靡く。私と彼女の長い髪が風によって踊らされる。

 彼女を見た感じだと私と同じぐらいの齢だ。十五か十六といったところか。彼女は細いからだで、整った顔つきだ。少し幼さが残るが大人のようなたくましさが伝わってくる。

 彼女は桜の刺繍が入った濃紫の女袴に青海波の模様をした桃色の半着を身に着けていた。それはとても似合っている雰囲気だった。

「えっと……?」

 最初に口を開いたのは彼女の方だった。私は目を大きく見開いてまだ驚いていた。

 彼女は口元を押さえて、くすりと笑った。

「ごめんね。驚かせちゃったわ。こんな山奥に人がいたからつい声をかけてしまったわ。でも、ごめんなさい。起こしちゃったわね」

 私は何とも言えない恐怖が胸に押し寄せてきていた。畏怖という魔物が私に襲いにかかってくる。私は動機が早くなるのを感じた。私はその魔物を一時的に追い払った。しかし、それはその場しのぎでしかなく、いつまた襲来してくるのかは見当つかない。

「あ、いや……私の方こそごめんなさい。みっともない所を見せてしまったわ」

 私は震える声で言った。久々に出会った人だ。十五、六の娘だとしても、油断はならない。警戒するに足る相手である。

「立てるかしら?」

 彼女が手を差し伸べる。私はその手を取ろうとした。でも、それを一旦止めた。私は彼女を信用していない。だから、その手は取らなかった。

 人には会いたくない。私はそう常々思っていた。だから、早く立ち去ればいい、と私は願う。

「どうしたの?」

 彼女が心配して私の顔を覗き込んだ。私はさっと顔を横にそらした。どうせこの子も私を嫌う。石を投げ蔑むのだ。そう違いない。

 私の心はひどく凍えてしまっていた。

 でも、凍えているのは私の心だけではない。

 私は無言で立ち上がった。彼女の手は取らなかった。私はきものについた土の埃をはたいて落とした。

 そういった冷たい態度を取る私に彼女は戸惑っていた。「えっと」と困惑していた。何か話題を作らなければ、と思い至ったのか、何かを話し始めた。

「家を抜け出して山の中を歩いていたら、変なところに出てしまって。そうしたら、綺麗なお花畑を見つけたものだから、その中を歩いていたら、貴女がいたの。だからつい声をかけてしまったの」

 彼女は経緯を丁寧に説明するのだった。

「……そうだったの。でも、女一人でこの山奥に入るのは危険でしょう?」

 私はとりあえず、話に乗っかった。笑顔は見せない。

「それは貴女も同じでは? 貴女はどうしてここに?」

「私は……暇だったから」適当に言った。

「私も同じね。ねえ。それよりもお話をしましょう! 私、最近、同じ年の女子とお話しをしたことがないの。いいでしょ?」

「え、ええ……?」

 唐突に彼女がそのような事を言ってきて困惑してしまった。私がつっけんどんな態度を取っているのにもかかわらず、こういった事を軽々言うのだから驚きだ。

「嫌かしら? 無理は言わないわ」

「い、いえ。……いいわ」私は思わず、了承してしまった。私は断ろうと思っていたのに、出てきた言葉がそれだった。私は心と言葉の微妙なずれに当惑する。「……いえ、あの……私なんかでいいのかしら?」

 私は怯えながら尋ねた。言葉を訂正するつもりであったのにもかかわらず、何故こんな事を聞いてしまっているのだろうか。私は彼女に何を求めているのだろうか。

「大丈夫よ」と彼女はくすりと笑った。

「私……こんなのよ」

 私は自分の身なりを見た。そして腰まで伸びている長い髪を持ち上げた。私が人から嫌われている原因の一つがこの髪の色だ。

「だからどうしたのよ。確かに、普通の人とは違うけど、関係ないわ」

「本当に?」

 私は目を大きく見開いた。そして、口元を両手で覆った。

「ええ。むしろ、私は好きよ。他の人は真っ黒ですもの。貴女のような髪を持つ女性は珍しくて美しいわ」

「あ、ありがとう……」

 私はドキッとした。これを褒めてくれた人は彼女が初めてだった。

 私は老婆のように髪が真っ白だ。私の肌は子供のようにもちっとしている。けっして老婆のような醜く、うろこが出来たようなカサカサとした肌は持ってはいない。それでも、普通の娘が持たない髪の色である。

 私はそれが嫌いで仕方がなかった。でも、彼女はそれがいいと言ってくれている。私は自分の存在を認められたような気がした。

「しばらくはここでお話をしましょう? さあ、座りましょう」

 私は彼女なら少しくらい心を許してもいいのではないか、と思ってしまった。それぐらい、この髪を褒められたのが嬉しかったのだ。

「そうね」

 私たちは腰を下ろした。

「私は、カラというわ。貴女は?」

 彼女が困惑の色を出す私に対して、太陽に優しく温かい笑顔で迎えた。そして、名前を名乗った。私は戸惑いながらも自分の名を彼女に伝えた。

「私は……キキョウ」

「キキョウ。そう、貴女はキキョウというのね。可愛らしい名前だわ」

「う、うん。カ、カ……」

「カラ。名前を呼ぶ合うことが恥ずかしい?」

「いえ。そんな事は……あ、あの……な、名前で……呼んでも、いいかしら?」

「もちろん。ねえ。私たち、友達にならない。きっと仲睦まじい関係となるわ」

「友達……」

 私はその言葉を聞いたとき、胸の奥底がほんわりと暖かかくなったように感じた。それは徐々に熱を帯びていく。私の氷のように凍って固くなってしまった心からポタポタと水が滴り落ちていく。

「嫌?」

「わ、私……みたいので……いいのですか?」

「クスッ。可笑しいわ。貴女みたいな謙虚な人、そうそういないわ。私の方が無理強いさせているみたいで不安になってしまうわ」

「そういうつもりでは……なかったわ。ごめんなさい」

「いえ。謝る必要はないわよ。まあ、こんなお話を繰り返していても意味はないわ。それより、私は貴女の事が知りたいわ。貴女は以前からこの場所を知っていたのかしら?」

 カラは可愛らしい朗らかな表情で目を輝かせて言った。カラは私の手を握った。私はビクッとその手をどけてしまった。彼女は「ごめんなさい」と手をひっこめる。凄く哀しそうな顔だった。私は思わずその手を握った。彼女の温もりをこの手に感じた。

 久々の人の温もりだった。カラは透き通った皮膚をしたしなやかの手をしていた。私は頬と同じような柔らかさをしたその手から、カラの慈しみを知れた。いつまでもこの手を握っていたいと思った。その手は私の埃に埋もれていた生を優しい手つきで払ってくれた。

「こちらこそ、ごめんなさい。あの、もしよろしければずっと……このままでいてもよろしいかしら」

 カラは栄養のある大地で陽光を浴びて強かに成長した花のようなあでやかさで笑った。そして、私の手を優しく包み込んだ。

「ええ。私もお願いするわ」

 私たちは横に倒れこんだ。双方の手を互いに握りしめたまま。

 見つめ合った。カラは透き通るように綺麗な瞳をしていた。私はその瞳の奥を見通す。彼女の目は川と交わり山を下る融雪した水のように澄んでいて綺麗だった。

「貴女は温かいわ。私が出逢ってきた人の中で一番、温もりを感じるわ。穢れがない。純美な人。でも、残念だわ。とても哀しそうな瞳をしている。目を奪われるような綺麗な大輪を咲かすお花にも関わらず、開くことを事に怯え、つぼみのままでいる。私にはそう見える。とても勿体ないわ」

 カラは私の頬にそっと触れた。

 私はカラに私の心を見透かされた事に驚いた。私は「あ……」と何か言葉を彼女に言おうとする。しかし、言葉が喉に引っかかって出てこない。音は鳴らずに空気しか漏れて出てこなかった。

 私は針で刺されたような痛みが胸に届いた。私は言葉を飲み込んだ。私は恐れていた。真相を知った彼女が私の傍を離れていくのではないかと。里の人と同じように私を侮蔑するのではないかと。出会って間もない少女だが、私はこの手を離したくはなかった。この手を離してしまえばまた私は冷たい氷の中で眠らなければならない。

 私はただ黙る事しか出来なかった。臆病になっている。

「そう」私の頭を撫でた。「いつか、話せるときが来たら、話してくれるかしら?」慈愛に満ちた顔でそう言った。

 私は「うん」と頷いた。

「ところで、貴女はいつからこの場所にいたの?」

「私は、朝から……」

 太陽は頂上に昇っている。目を覆いたくなるぐらいまばゆい光を放っていた。

「そうなの。いつこの素敵な場所を見つけたの?」

「えっと……」私は指を折った。それで数を数えた。一本一本ゆっくりと折りたたんでいく。私が歩んできた道のりを年として数えていく。やがて私の片方の手の指では足りなくなってしまった。片方の手は彼女に使われているため、それ以上を数えられなかった。

「ごめんなさい。忘れてしまったわ。片手、いえ、両の手の指を、折ってもたりないほど前の事だわ」

「そうなの。私ももっと早くこの場所を見つけられていたら良かったのに。そうすれば子供の頃から貴女と友達になれていたのかもしれないのに」

「それは、私も同じだわ。でも、今はとても幸せよ。千年の孤独から解放されたような気持ちだわ」

「貴女にはご家族はいるの?」

「ううん。いないわ。だからずっとここに一人で暮らしてきたの」

「それは本当に⁉ そう……失礼な事を聞いてしまったわ」

「いいのよ。案外この生活も悪くないから」

「そういう事だったのね。私は、貴女に冷たさを感じたわ。凍えそうになるのを必死に耐えているように見えたわ。でも、安心して。私が暖になるわ。貴女の氷を解かしてあげるわ」

「……」

「迷惑だったかしら?」

「ううん。嬉しいわ」

 カラは私をそっと抱きしめた。暖かい吐息が私の首筋にあたり、こそばゆく感じた。体温が全身に伝わる。太陽のように暖かく風のように優しく私を包み込んだ。私は細い腕の中で目を閉じる。今までに感じたことがない気持ちのいい時間だった。この感覚を私はとうの昔に、赤子の時に、すでに感じていた。あの心を唯一許せる、安心して眠っていられる憩いの空間。私はそれをカラに感じ、求めた。

 きっと私たちが出会ったのは運命だったのだ。それは曲げる事が出来ない運命の輪。だから、この時に出逢わなかったとしても、必ず出会えたのだと思う。暗い闇の中でうずくまる私を必ず見つけてくれると。そして必ず手を差し伸べてくれると。私はそう信じている。

 要するに私たちは出会うべくして出会ったのだ。恋を追う男と女のように。

 カラは私に面白いお話を沢山してくれた。とても色濃く綿密な時間を私に与えてくれた。私の為に貴重な時間をくれた。私にはカラに何もあげられるものがなかった。私はそれがとても哀しかった。胸を締め付けられるような思いだった。



 二つの魅力的な花は大輪を咲かせる。そして愛でられる美しさを保ったまま落ちていく。大自然の中を切り裂き流れる、何色にも変化し輝く川の中へ落ちていく。その川は戻ることを知らずに下へ下へと流れていく。二つの花はその身を流れに任せ、旅立っていく。行く先は分からない。いつこの旅が終わるかは分からない。しかし、それでも二人は川にこの身をゆだねるのだ。



「ねえ、キキョウ。私のこと……好き?」

「ええ。好きよ。カラ」

「嬉しいわ」

 カラは私の唇にキスをした。それは柔らかくて、蜜のように甘く淡い味だった。

 私は恍惚とする。トロンととろけた目をする。余韻がまだ残っていた。

「楽しいときはあっという間だわ。もう日が暮れ始めてしまったわ」

「ええ。もっと一緒にいたいわ」

「でも、残念だわ。私はもう帰らなければならないわ」

 私は胸がズキッと痛んだ。この手を離したくはなかった。

「ねえ。またここに来てもいいかしら?」

「来てくれるの?」

「もちろんよ。毎日行きたいわ。そして時間が許す限りずっと貴女の横にいたいわ」

「嬉しい。でも、本当にいいの?」

 カラはくすりと笑った。そして、私の頭を優しく撫でるのだった。

「私は必ず来るわ。貴女に会うために」

「うん。待っているわ。ここで待っているわ。貴女が来るのをいつまでも待っているわ」

「大丈夫よ。安心して。必ず。約束を守るわ。そうだわ。約束にこの珍しいお花を差し上げるわ」

 カラは辺りを探す。そして、少し遠くにあったある花を摘み取り、それを私にくれた。

「これは……?」

 私はその花を見た。白色に染まるその花に私は見惚れた。その花は多肉質の葉をもっており、その上にピンク色の花弁が首を垂らしていた。

「多分、これはカランコエという種類だわ。私の名前の一部分と同じ。これを持っていて。私だと思って。もしも貴女が私を想っていてくれるのなら受け取って」

「いいわ。でも……貰ったお花はすぐに枯れてしまうわ」

「だったら枯れてしまう前に私が新しい花を貴女にあげてしまえばいいわ。そうすれば貴女が持つ花は永遠に枯れないわ」

「……それもそうだわ。うん。大切にするわ。そして、私は貴女を待っているわ。……あ、そうだわ」

 私は適当に花を一つ摘み取った。それは青紫色をしていた。そしてそれをカラに渡した。

「これをカラに差し上げるわ。カラもこのお花が枯れてしまう前に私に届けてくださる?」

「ええ。いいわ」カラは私のお花を貰い受けた。「これは……キキョウだわ。貴女と同じ名前」

「そうなの? 偶然だわ」

「まるでそのお花に導かれたかのようだわ。私、大切にするわ。そして、交換しにやって来るわ」

「ええ。待っているわ」

 私たちは手を握る。そして指を絡めた。

「じゃあ、私はもう行かなくてはいけないわ」

「送らなくて大丈夫?」

「ええ。一人で帰れるわ。それに貴女、ここを離れたくはないのでしょう?」

「ごめんなさい。下に降りたくないの」

「いいのよ。それでは。また会いましょう」

「ええ。会いましょう」

 カラは最後に私にキスを残して去ってしまった。

 陽は沈みかけていた。赤く燃えるそれはこの世の終わりを示しているかのようだった。そんな光が私を照らしていた。そして、黒い影が花畑に薄く長く伸びていた。

 私はカラから貰ったお花を抱きしめた。

「また会いましょう」と、私はこの言葉を繰り返していっていた。何度も。やがて私の声は静かな暗闇に溶けていった。

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