6,キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン

 瞼に透ける朝日に気がついて目を覚ました。起き上がって藤野の方を見ると、まだすやすやと寝息を立てている。店内を見渡すがマスターもヤマダもいない。私は大きく伸びをして、外の様子を見る為に店のドアを開けた。冷たくて、澄んだ空気が肺に入り込んでくる。小学校の頃、夏休み中にラジオ体操の為に早起きした時と同じ空気の匂いがする。ドアの脇にしゃがんで上着のポケットに入っていたスマホを取り出すが、機内モードにしていたことを思い出す。

「なんだ、こんなところにいたんだ」

 店の中から出てきたマスターは、お尻のポケットから煙草とライターを取り出して、火をつけた。一口目をフーッと吐きながら、私の隣に私と同じようにしゃがみ込んだ。

「おはよう」

「おはようございます。昨日はありがとうございました」

「……あんたらさぁ、けっこう訳アリだよね」

 私はどきりとした。平静を装いながら答える。

「父親探すって、やっぱり珍しいですかねー」

「いや、そうじゃなくてさ。目的のために向かっているんじゃなくて、何かから逃げてここまで来たように見えるんだけど。違う?」

 私の返事を待つようにマスターは二度ほど煙を吸って、吐き出した。

「──私もそこまで他人に興味ないし、どうせ今日出発するんでしょ? もう会わないと思ってさ、言っちゃいなよ。それともなに? もしかして人殺しでもしちゃったとか?」

「──はい」

「……はいって、どっちの意味?」

「殺しました」

 会話の内容とは裏腹に、のどかな雀の鳴き声がとおくで聞こえる。

「……マジ?」

「……マジです」と言いながら私は両膝に額をくっ付けた。

 煙を吐く音の後に「マジかー」というマスターの声が聞こえる。

「二人でやっちゃったわけ?」

「違います! あの子は! ──藤野は何もやってません。私の為に一緒に逃げようって言ってくれて」

「殺意があってやったわけ? それとも事故?」

「事故です。でも殺意が無かったとも言えないかもしれない」

「正当防衛だとか不慮の事故であればある程度刑が軽くなると思うけど、逃げたら逃げただけ状況は悪化するんじゃないの?」

「分かってますよ、そんなの……」

 でも。

「もし私の人生がこれで終わりなら、最後に大好きな人と思い出作りできたらなって思って。最低だけど、東京に行くのちょっと楽しみなんです」

「あの子、あんたにとってそんなに大事な人なんだね」

「私のことを救ってくれたから。私にはもう藤野しか残ってないから」

「お母さんはいるんでしょ? 相談はしたの?」私は答える事ができなかった。

「もしかして」私は俯いたまま頷いた。

「……連絡は、一切見てない感じ?」わたしは俯いたまま首を横に振った。

「いやー、なかなか難儀だね……。──でもさ、不謹慎だけど、ちょっと素敵だよね。大事な人と一緒に街を飛び出すのって。映画みたいで素敵」

「……通報、しないでください」

「別に通報もしないし誰かに話す気もない。その代わりもし捕まったら、ここに居たことを内緒にしておいてよ。私は厄介ごとに巻き込まれたくないから」

 マスターが煙草に火を付ける音が聞こえて、私は顔を上げた。

「あの、それ一本貰っても良いですか?」

「やだよ。あんた絶対未成年じゃん」

「どうせここには居なかった事になるんでしょ?」

 私の顔を睨みながらマスターは渋々箱の中身を一本取り出して、私に差し出した。私は見よう見まねでフィルター部分を咥える。マスターがライターの火を付けて、こちらに向ける。咥えた煙草の先端を火に当ててみるが、なかなか思うように付かない。

「違う違う。吸うの。吸わないと火、付かないよ」

 言われた通りにすると、煙草の先端が赤く灯った。同時に今まで副流煙として吸い込んでいたあの煙が直接口の中に入ってきて、咽せた。

「ま、そうなるよね。本当は肺に入れるんだけど、しんどいでしょ。口に溜めて吐いてみなよ」言われた通りやってみたけれど、ちっとも美味しくない。

「大人はこんなまずいもの吸ってたんだ」

「あの子が見たら、悲しむんじゃないの?」と言いながらマスターは、もたれかかっている店の壁の向こう側を示すように、顎で指した。

「絶対嫌がると思うんで、言わないでください」

 しばらくして二人で店内に戻ると、ようやく藤野がゆっくりと起き上がった。

「おはよう! もう朝だよ」

「……おはよう。そんなに寝てたんだ」

「そろそろ店閉めて帰るから、あんたたちも出ていく準備しな」

 マスターの言葉を聞いてあることに気が付く。

「あれ、そういえばヤマダは?」

「とっくに出ていったよ」

 マスターの話によると、ヤマダは一時間ほど前に店を出ていったらしい。上野とは全然違う方向に向かう予定だった事、私達二人の寝顔を見て起こすのが悪いと思って黙って出ていったとの事だった。ここで一夜を明かすことができたのは、他でもない彼女のおかげだった。お礼の一つでも言いたかったけれど、流れで一緒に行動するようなことにでもなってしまったら迷惑がかかる可能性もあるので、仕方ないと思った。

 昨晩飲んだオレンジジュースの代金を払おうとしたけれど、断られた。スマホでの連絡を絶っている話を聞いたからか、掛川駅から上野駅までの乗り換えを書いたメモも用意してくれた。「すみません、何から何まで」と私が言うと、

「上野動物園とか、博物館とか、上野駅の近くには観光地がいっぱいあるらしいから、せっかくだしいろいろ観光してきなよ」と言いながら店の扉を施錠して原付に跨り、悲しむ暇もないくらいあっさりと走り去っていった。私達は車道に飛び出して、深々とお辞儀をして彼女を見送った後、歩いて駅まで向かった。

「オニールさ、ちょっと元気になった?」

「ん? そうかな?」

「ヤマダさんもマスターさんもいい人だったからかな」

 口の中に残った煙の匂いを感じながら、信用してはいけない大人ばかりではないのかもしれないと、考えを改めるべきかもしれないと思った。

 掛川駅から上野駅までは二度乗り換えが必要なようだった。掛川駅から東海道本線行で静岡市の興津駅に向かい、熱海行に乗り換える。熱海駅から東京駅に向かい、そこから更に上野行の山手線に乗り換えるらしい。

 掛川駅のコンビニでうなぎパイを買おうか迷っている私に藤野は「熱海の方がきっと美味しいものがあるよ」と言いながら店から引き剥がした。言われた通りに熱海駅の乗り換えで構内の売店を物色すると、美味しそうな駅弁が並んでいる。

「すごい! 熱海は金目鯛が名物なんだね。どれにしようかな……」

 しばらく悩んだ結果、小鯵の押し寿司と釜飯をそれぞれ手に持って見つめる。

「金目鯛じゃないんだ……」

「せっかくだし、食べる機会が無さそうな方をあえて選んでみようと思って……」

「じゃあ私釜飯にするから、小鯵の押し寿司にしたら? 交換して食べようよ」

「ほんとに!?」

 駅弁を買って乗り換え先の電車に乗った。釜飯は山の幸が中心となっているようだった。大きな椎茸は味が染み込んでいて、冷めていても美味しい。小鯵の押し寿司の方は、酢飯と小鯵のさっぱりとした爽やかさが、夏も過ぎかけた今の季節にぴったりの弁当だった。

「キック・アス、観る?」

「観る観る。絶対面白いじゃん。勧善懲悪物よりも、ちょっとズレた正義とか境遇であったほうが見所多いよね」

「パラノーマル・アクティビティ2は?」

「無理無理! 絶対怖いじゃん。てか前作も観てないから!」

 藤野は顔に似合わずホラーが大丈夫で、私は全くダメだった。ジャンプスケアが多い作品が特に苦手で、なんでわざわざビックリするものを自分から観にいかないといけないのか、意味が分からなかった。

「それはね、現実よりもホラー映画のほうがドキドキ出来るからだよ」

 現実に飽き飽きしていた身からすると、妙に納得してしまう理論だった。

「パラノーマルはともかく、キック・アスは一緒に観に行こうよ」

「うん、そうだね。私ももっと劇場で映画観たいな」

 熱海駅を出発してからはしばらく山景が続いていたけれど、根府川あたりで海が見えて、小田原に着く頃には自然の景色よりも民家や街並みが目立つようになった。じきに車内アナウンスで次の到着駅が横浜であることを知らせた。

 昨日の出来事がずっと昔に思えるくらい、目まぐるしく景色が変わっていく。もし、昨日起きた事が全て夢だったら。私は学校を卒業して、東京で仕事を見つけて、狭くてもいいから安い部屋を借りて、藤野も卒業したら上京して一緒に……なんて、現実的じゃない。やっぱり無理だ。この旅には必ず終わりがやってくる。私の隣に藤野はいないかもしれないし、藤野の隣に私はいないかもしれない。それでも今だけは──。

「降りるよ」

 私の手を握って藤野が立ち上がった。ハッとして見上げると既に上野駅に到着している。彼女は私の手を引いて、人混みをかき分けてホームへ降りた。名古屋駅の何倍あるんだろう。人も多い。私の地元ってやっぱり、取るに足らないくらい小さな存在だったんだ。

 ホームのエスカレーターを降りると、天井の低いコンコースは柱を隔てて無限に広がっている。どこが出口なのか分からないほどに、人々が自由な方向へ歩いて行く。案内図を見つけて出口を探す。

「どの改札から出ればいいんだろう……」

「公園改札っていうのは多分違うよね……。こっちの中央改札ってところから、とりあえず出てみる?」

 私の提案により、おそらく一番メインの改札である、中央改札を通って外に出た。そのまま商業ビルに繋がっていたようで、左右には食料品を扱うスーパーのような店やカフェ、アンテナショップが軒を連ねている。まっすぐ正面に建物の出口があり、横断歩道と走り抜ける車が見える。とりあえず外に出てみようとそちらへ進み出口を抜けると、藤野が不意に叫んだ。

「あ! あれ!」

 私と繋いでいる手と逆の手で指を差すほうを見上げると、どこかで見た事のあるビルがそびえ立っていた。パパの居場所の手がかりになると思って保存していた写真の、背後に写っている建物と全く同じものだった。現在の気温を示す電光掲示板と、店の名前なのかよくわからない記号のようなものが書かれている。

「オイオイって読むの?」

「ゼロイチゼロイチ?」

 信号待ちをしながら二人で話していると、同じく隣で信号を待っていた知らないおばさんが突然私たちに向かって言った。

「マルイよ、あれは。マルイって読むの」

 私はなるほどと呟きながら、どうも腑に落ちず、視線をおばさんからマルイの看板に戻す。信号が青に変わった事に周りの歩行者の動きで気がついて慌てて歩き出すと、おばさんはどこかに行ってしまっていた。

「○が『マル』で|が『イ』なら『マルイマルイ』じゃないの?」

「そういう意味分かんなさが東京っぽくない?」

「めっちゃ雑じゃん。私みたいな事言うね」

 そうかな、と藤野が笑った。横断歩道を渡り終えたマルイ前の通りはお祭りでもあるのかというくらい混んでいた。店に入る用事も無かったのであたりを見回すと、交差点にかかる陸橋に続く階段が目に入った。方角的に上野駅側に通じているんだろうか。

「もしかしてこれ登ったらあの写真の場所、分かるかな?」

「行ってみよう!」

 駆け足で登ると、陸橋は確かに上野駅と書かれている建物へと通じている。マルイとの位置関係も考えると、間違いないだろう。

 手がかりとなる場所を目前にして、私はパパとの思い出を回想した。パパがなんの仕事をしているのか、子供の頃の私には全く検討が付かなかった。毎日私が学校に行くより先に家を出て、二十時頃には帰ってくる。家にいる時は話し相手になってくれるし、休日は家族三人で買い物に行ったり、娘の私とママとの時間を大事にしてくれているんだと、少なくとも私は感じた。だからママが宗教にハマっておかしくなって、離婚が決まった時に、パパは絶対に私を連れて行ってくれると思っていた。だけど、そうならなかった。

「もうひとつ上の場所かな」

 そう言う藤野に手を引かれるまま、駅へと繋がるエスカレーターを昇る。

 都会を意識するようになってから、地元のつまらなさがより一層鼻につくようになった。もしかしたら、パパもあの街から逃げ出したかったのかもしれない。おかしくなったママとの繋がりを絶って、もう一度やり直したかったのかもしれない。でもそれは、ママも同じだったかもしれない。そして、今こうして東京で奔走している私も。

 エスカレーターを昇り終えると目の前にコンビニがあり、奥には改札が見える。そして左方を見ると、線路の上を跨ぐように真っ直ぐに開けた通路。そこには見覚えのある景色が広がっていて、私は叫んだ。

「藤野、あれ! 写真のやつ‼」

 通路に等間隔で配置されていたのは、写真の中で酒やおつまみが並べられていたあのスペースだ。足元をよく見てみると、今立っているこの床のタイルも写真で見たものと確かに同じだということに気が付く。

 二人でマルイの方を向きながらスマホを掲げて、蟹歩きで位置を確認した。そしてついに、写真と全く同じ構図の場所に辿り着く。

「やったー‼  絶対ここじゃん!」

 二人で手を取り合ってひとしきり喜んだけれど、パパは見つかっていない。

「こ、この後どうする……?」

 そう漏らした藤野に「聞きたいのはこっちの方だ」と言いたかったけど、元はといえばパパを探しに来たんじゃない。今あったところで話す事も無い。振り返って改札の方を見ると、《JR上野駅 パンダ橋口》と掲げられた看板の向こうに、パンダ橋と上野公園の方向を示した標識が立っていた。どうやら今いる場所はパンダ橋と呼ばれていて、この橋を進むと上野公園があるらしい。

「観光でもしてみる? マスター言ってたじゃん、動物園とか博物館があるって」

「いいね! そうしよう」

 迷子になって西郷隆像の近くを何度もぐるぐる回りながら、ようやく上野動物園にたどり着いた。動物園は家族連れで賑わっていたけど、肝心のパンダは二年前に亡くなってしまったそうで、来年を目処に新しい子を迎え入れる予定らしい。

「生パンダ、見たかったなぁ」

「また来年見に来ようよ。再来年でも、その次でもいい」

 がっかりする藤野にかけた励ましの言葉は自分自身にも向けたものだった。来年も再来年も、あったらいいな。

 園内を右手から周り、ゴリラ、ゾウ、ホッキョクグマ、サル山のサルや肉食の大型鳥類も見ることができた。大きな橋を渡った隣のエリアにはキリンやサイ、爬虫類などの暑い地域に生息する動物もいた。蓮の葉が生い茂る大きな池を手元のパンフレットで確認すると、上野駅の案内図で見た『不忍口』の読みの答え合わせをようやくする事ができた。

 不忍池の脇にあるペンギンのエリアに藤野は釘付けになった。日光浴をしていて動きの無い彼らに飽きてきた私は、近くにある売店の様子を眺めていた。野外のワゴンに詰め込まれた様々な種類の動物のぬいぐるみに、子どもたちが群がっている。お父さんやお母さんは子どもの喜ぶ動物を見繕っていたり、一方で退屈そうでもある。その中の一人の男性の顔に、私はペンギンよりも釘付けになった。

 咄嗟に足が動く。ここで逃したら、一生会えないかもしれない。子どもと奥さんらしき人を店の中に送り出し、手を振っている男性の目の前で立ち止まる。男性は一瞬たじろいだが、私の顔を見て自分に用があるわけではないと思ったのか、視線をぬいぐるみの方へとやった。私は例の写真をスマホの画面に表示させて、

「これ、あなたですよね?」と男性の眼前に向けると、男性は驚いた様子で画面を凝視したまま言った。

「俺だ……。これ、どこで撮ったの? いつの写真? ていうかきみ、何者?」

 すべての質問を無視して、私は聞き返す。

「『中村弘二』っていう名前に聞き覚えは無いですか?」

「中村弘二? 誰だっけ……。これってパンダ橋だよね? いつ飲んだ時のやつかなこれ……」そう言いながら男性は目を瞑って、天を仰いだ。しばらく考えた後、思い出したのか目を開いた。

「もしかして、中村弘二ってヒロちゃんの事?」

「ヒロちゃん?」

「なんだ、違うの? この辺りじゃすげー有名だよ。知り合いでもないのにパンダ橋で飲んでると、勝手に輪の中に入ってくんの。宗教にハマった嫁を捨てて上京してきたけど、いい歳して定職にも就かずに人から金借りてパチンコに通ってるって聞いたけど」男性はヘラヘラしながら続ける。「まさかきみ、ヒロちゃんの娘とか? 流石にそんな訳ないか」

 彼に掲げていたスマホを持った手を下ろして俯いた。男性の家族が戻ってきたらしく、捨て台詞のように私に言った。

「その写真、気持ち悪いから消しといてよ。知らない人に写真撮られるのって、なんか嫌だわ」

 ギャンブルにハマっているなんてママの妄言だと思っていた。パパがろくでもない人だって信じたく無かった。私は、しょうもない両親から生まれて、しょうもない街で育った、しょうもない人間だという、心のどこかであった憶測が、確信に変わってしまった。今までの私の人生って、本当に意味のないものだったんだな。脳裏に焼き付いていた楽しかった思い出たちが第三者視点で蘇って、そこに映った自分の姿が虚しくて、涙が溢れてきた。

 ぼやけた視界の中、気がつくと目の前に藤野が立っていた。ワンピースの裾を強く握った手を引き剥がして、その手を握りながら彼女が言った。

「どうしたの。何があったの」

「なんでもない」

「嘘つかないで。泣いてるじゃん。本当の事言って」

 もう全部終わった事を説明するのも面倒で、必死に考えた言い訳を捻り出す。

「ぬいぐるみ欲しくて泣いてるの」

 彼女は一瞬呆気に取られた顔をしたが、私の指差す売店の方を見た後「どれが欲しいの?」と真剣な表情で質問をした。

「じゃあ、一番人気が無さそうなやつ」

「──わかった。ちょっと待ってて!」

 今まで見たこともないようなスピードで売店のワゴンに走り去って行った。よく見えないけど、近くにいた店員さんと何か話している。売店の店内に店員さんと消えた後、行きと同じ全力ダッシュで戻ってきた彼女の手には上野動物園のロゴが入った袋が下げられていた。

「買ってきたよ。一番人気が無いやつどれですかって聞いてきた。当ててみて」

 手渡された袋を抱きしめると、ふかふかと柔らかい感触がビニール越しに伝わってくる。形を確かめるように色々な方向から握ってみる。

「なんだろう。……うーん。オランウータン?」

「ブー。霊長類のぬいぐるみって、何故かお年寄りに人気らしいよ」

 袋の口に付いたテープを剥がして手を突っ込むと、袋から取り出した。

「これは鷲……? それとも鷹?」

「大鷲なんだって!」

 園に入って割とすぐに大鷲を見たことを思い出した。一〇メートル以上ありそうな高さの檻のてっぺんで止まり木に鎮座する姿はバイカーか空軍のジャケットにでも印刷されていそうな風格で、大きさも想像の三倍くらいあった事に驚いた。

「かっこいいと思うんだけどなぁ、大鷲。人気無いんだ」

「オニールって星座詳しい? 夏の大三角ってあるじゃん。あれって──」

「アルタイル?」

 私がそう言うと藤野は頷いた。別名アルタイルと呼ばれているわし座は、七夕の彦星としても知られている。織姫と離れ離れになる運命を背負った彦星の星座だなんて、まるで今の私みたいだなと自惚れながら、ぬいぐるみの頭を撫でた。

 上野動物園には正門とは別の出入り口があった。不忍池に沿って歩いていくと、弁天門という場所から外に出ることができる。星座の話がきっかけで博物館もあることを思い出した私たちは、今度はそちらに向かうことにした。公園の桜の並木道を抜けると、博物館の前には特別展を知らせる看板が立っている。

「特別展『空と宇宙展─飛べ! 百年の夢』だって。これも見る?」

「絶対見る! さっき星の話したばっかりだし!」

 左手は鷲のぬいぐるみを、右手は藤野の手を握っている。こんなの、地元だったら笑い物だっただろう。東京の人はみんな他人に無関心なのが心地良い。

 公園に面した野外の受付でチケットを二枚購入して建物の奥に進む。中に入ってすぐ、チケットをもぎるスタッフにパンフレットとあわせて何かを渡された。

「こちらは、各日先着百名様に配っている『ツキの砂』です」

 消しゴム大の透明なボトルに、灰色の粉のような物が詰まっていた。藤野はボトルの中身をうっとりと眺めて、宇宙へ思いを馳せている。

 ちょうど数ヶ月前に地球に戻って来た『小惑星探査機 はやぶさ』の部品の展示コーナーを抜けた先の、月についての展示でようやく入り口で配られた月の砂の正体が判明した。『ツキの砂』とあえて表記されたそれの正式名称は『月土壌シミュラント』で、本物の月の砂ではないらしい。本物の月の砂は『レゴリス』と呼ばれていて、粒に丸みがなく、角ばっている。地球の砂や地面とは勝手が違うため、月面探査機を開発する為にはそのレゴリスと同じ環境の土壌が必要だそうだ。その為に本物の月の砂に似せて作った人工の砂こそが、月土壌シミュラントであり、入り口で配られた『ツキの砂』ということらしい。

 天の川銀河のイラストが描かれた展示パネルを眺めながら、ツキの砂の入ったボトルを振ってみた。直径が一万二千キロメートルもある地球も、銀河系という集まりの中では塵ほどの大きさしかない。その地球に住む私たち人間の存在なんて、いてもいなくてもたいして変わらないのかもしれない。

「なんか、宇宙が大きすぎて全部どうでもよくなっちゃったかも」

 展示エリアを抜けた先の吹き抜けになったガラス張りのスペースで、ベンチに座りながら私は呟いた。館内を走り回る子供達の喧騒は絶えず賑やかだけど、見上げた先のガラス越しの空は薄曇り、明日の天気も分からないような不安定な色をしている。私にはそれが、旅の終わりを暗示しているように見えた。

 特別展の出口を抜けながら「博物館のお土産売り場、好きなんだ」と藤野が言った。私も楽しみだった。だけど売り場に足を運ぶと、お土産売り場に売っている元素記号の書かれたポストカードも、化石採掘キットも、恐竜のミニフィギュアが詰め込まれたボックスも、全てが霞んでしまうほどのものが、そこにあった。

 本物が見られると、思っていなかった。

「どうしたの?」

 突然足を止めた私の袖を藤野が引っ張った。私ははっとして、慌てて鞄の中から一枚のDVDを取り出した。昨日の夜お別れを告げたバイト先で渡されたそのDVDにはジャケットこそ付いていないものの、半透明のケースに透けて、ディスクにタイトルが書かれてるのが読み取れる。覗き込んだ藤野が読み上げた。

「『ペーパームーン』……?」

 DVDを持ったまま固まる私の目の前には、記念撮影用のスペースがあった。特別展のタイトルを頭上に掲げ、巨大な三日月のハリボテが微笑みながら鎮座している。三日月には上に座って撮影できるよう、裏側に台座がついている。この三日月とDVDの関係が分からない藤野は、私に質問をした。

「これ、どういう映画なの?」

「聖書を売り付けて生計を立てる詐欺師の男が、母親を亡くした女の子と一緒に、その子を伯母のもとまで送り届ける旅をするって話。──主役の二人が本当の親子なんだ。娘は十歳で、テイタム・オニールって言うの。ハンドルネームにするくらい好きなの。だからさ、好きって言うの、なんか恥ずかしいじゃん? 初めて会った時に言いそびれてタイミング逃しちゃった。それだけ」

 理由に納得したのか、知ることが出来て満足したのか、彼女はそれ以上その映画について詳しく聞こうとはしなかった。

 私は彼女に「記念撮影しよう」と提案した。一緒にプリクラを撮った時に「いつかちゃんとした記念写真を撮ろう」って約束したから。その「いつか」はもう二度と来ないかもしれないから。

 私は近くを通りかかった子ども連れの家族を呼び止めた。スマホを渡して、シャッターを押してもらうようお願いをした。藤野の手を握って三日月のもとへ向かうと、彼女は三日月の弓形になった部分の台座に腰かけて、私はその台座に上がった。そして彼女のうしろから腕を回して、抱きしめた。

 ──なんとなく、寂しそうに見えた。映画の話ができて、楽しかった。私の言うことに文句も言わず、付き合ってくれた。全部、自分のわがままだった。居心地は良かったけど、心の片隅にはずっと罪悪感が残っていた。いつか見限られて、またひとりぼっちになってしまうんじゃないかって、怖かった。

「藤野が考え無しに私を連れ出してくれて、嬉しかったんだ。私がしていた事を藤野が私にしてくれて、それで私の心は救われたんだよ」

 私が耳元で囁くと、藤野も応えた。

「こんなことをしても意味が無いって本当は分かってた。それでも、あの退屈な世界から私を連れ出してくれた時みたいに、私もオニールを救ってあげたかった」

 作り物の月と撮る記念撮影は、カメラがまだ普及していなかった三十年代では裕福さと幸せの象徴だった。映画の主題歌『イッツ・オンリー・ア・ペーパームーン』の歌詞では「あなたが信じてくれるなら、作り物ではなくなる」と歌われている。

 スマホを構える男性が手を挙げてこちらに合図を送っている。私は大鷲のぬいぐるみを握りしめて、藤野はツキの砂のボトルを構えて、それぞれが不器用にピースをした。やっぱり私たちは写真を撮られ慣れていない。

「藤野、私と出会ってくれてありがとう。あの時、一緒に野球をしてくれてありがとう。ずっと私のわがままに付き合ってくれてありがとう。最期に私をわがままで振り回してくれて、ありがとう。大好きだよ」

「オニール、私の存在に気付いてくれてありがとう。退屈から救ってくれてありがとう。私の事を信じてくれてありがとう。私も大好き」

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