4,銀河
「逃げるって……そんな……」
逃げる先なんてどこにも無いし、私達子どもだけで出来ることなんて──。
「お父さん、離婚した後はどこに行ったの?」
「……東京」
その瞬間、こんな状況にもかかわらず藤野の顔がぱあっと明るくなった。私のぐしゃぐしゃになった顔を上着の袖で拭きながら言った。
「東京に行こう! ここから逃げるついでに、お父さんも探してみようよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。急すぎない? それに──」
「お父さんに頼るわけじゃない。逃げるついでに探すだけ。東京まで行ったらきっとなんとかなるよ」
おかしい。そんな事したって、何も解決しない。結局は逃げても逃げても平穏なんてどこにも無くて、最後には捕まってバッドエンドの逃避行だ。そんなの、映画で嫌というほど観てきた。
「藤野はどうなんのさ! ……あんたはまだ家に両親いるじゃん。そんな、私みたいに全部を捨てて家を出るようなことしなくたって……」
「じゃあオニールは、どうしたい?」
どうしたい? 私の人生、ここで終わりたくない。自首? 犯罪者? 刑務所? 家族はもう誰もいない。私には藤野しかいない。藤野と、ずっと一緒にいたい。頭の中で最悪の事態や安心できる未来のビジョンがぐるぐると駆け巡って、正常な判断が出来なくなりつつあった。
「私は……藤野とずっと一緒にいたい。離れたくない」
「じゃあ、とりあえず靴、買わなきゃね」
藤野が指差す私の足は泥だらけになっていた。今から靴を買えるところを考えた結果、ここから自転車ですぐの場所、藤野が映画を観に行く事でお馴染みのイオンにふたりで向かう事にした。営業時間ギリギリとはいえ、このままの格好で店内に入ると目立つし、店員に捕まる可能性を考えて私は駐輪場で待つことにした。二十分ほど待っていると、買い物袋をぶら下げた藤野が戻ってきた。袋から裸の状態の運動靴を取り出すと、私の足元に並べて靴紐をほどき始めた。
「今から履き替えますって言って、タグ取ってもらった。普通の白い運動靴だけど、いいよね? それと靴下も買ってきたから履き替えなよ」
おろしたての靴下と運動靴のさらさらとした感触が私の疲れた足を包み込んで、幾分か安心した気持ちになった。地面を踏んで感触を確かめる。今ならどこへでも行けそうだ。
「ありがと。お金返すね。いくらだった?」
私が財布を開こうとすると、藤野が制止した。
「いいよ。私バイトしてるし」
「いやいや、私だってしてるし。……え? 藤野、バイトしてたの?」
「うん、してるよ。オニールもバイトしてたの!?」
お互いに会っていない時間はバイトを入れていたらしい。とはいえ周りの高校生のように空いている時間は夜遅くまでシフトをみっちり入れているわけでもなく、一緒に遊びに行く時の足しにでもなればいいという稼ぎ方の考えまで、私と藤野の考えはほとんど同じだった。回転寿司チェーン店のホールでバイトをしていたらしい彼女の姿を想像しかけて、大事な事を思い出した。
「もうこの街には戻って来ないんだよね? 行っておきたい所があるんだけど」
「電車無くなっちゃうし、今ここでうろうろするのも危ない気がするけど……」
「バイト先で借りてたDVD、明後日までに返さないといけないんだよね。ちょっと挨拶して返却口で返すだけだから。北岡崎駅からすぐの場所だし、駄目かな?」
私のお願いに渋々了承した彼女を連れて、バイト先のレンタルショップに向かった。周りの店は殆ど閉まってしまった中、煌々と光を放つ看板と入り口の自動ドアを確認して安心した。閉店時間までまだ二時間以上はある。店の脇に自転車を停め、リュックから返却するDVDを取り出した。
「一言挨拶したらすぐ戻ってくるから、ちょっと待っててね」
確かこの時間、店長はいなかったはずだ。私がバイトを辞めるって言ったら引き止めたんだろうか。自動ドアが空くと無機質な匂いと有線のBGMが出迎えた。この匂いも今日でお別れかと思うと、途端に懐かしい気持ちになる。入ってすぐ左手の返却カウンターの前に立つと、レジ側から見知った店員が顔を出した。
「ご返却でよろしかった……中村さん。今日シフトじゃないですよね?」
出迎えたのは私より半年遅く入ったバイトの裴君だった。彼も彼の両親も韓国人だけど、生まれた時からこの街に住んでいて日本語しか話せないらしい。
「とりあえず返却ね、これ。あと申し訳ないんだけど、今日でバイト辞めるから。店長に伝えておいて」
「なんでですか!? 中村さんいないとこの店結構大変です。最近シフト少なくなったから尚更。中村さんここで一番映画詳しいよ。頼りにしてるのに」
「制服は多分返す。後日ね。とにかく私、この街から出てくから。裵君も元気でね」
そんな、と悲しそうな顔をした裵君はちょっと待ってくださいと私に一言断りフロアに消えていった。小走りで戻って来ると私に一枚のDVDを差し出した。
「えっ……今借りても返しに来ないよ?」
「それ、中村さんが何度も借りてた映画。返さなくてもいいです。店長に何か言われたらレンタル落ちで買い取ったって嘘付いておきます」
その映画は、特別面白い訳でも無いし今観たら古臭くてたまらないのに、タイトルやテーマが好きで繰り返しレンタルして観ていた。もしかしたら、今の私にぴったりの映画かもしれない。
「じゃあ、ありがたく貰っておくね」
話している間にレジ待ちの列ができかけていたので、私はDVDをリュックにしまって、そそくさと自動ドアを抜けた。
「大丈夫だった?」
「うん。今日で辞めるって伝えてきた」
「なんかオニール嬉しそうだね」
もしかすると、うんざりしながら過ごしていたこの街での生活の中で、気が付かないうちに他人の優しさに触れていたのかもしれない。それは藤野に出会うまで私が気が付けなかっただけかもしれない。でも、良かった事を探しても、悪かった事が変わるわけじゃない。適当にごまかしながら毎日を過ごしたくない。
「なんでもないよ。これで私とこの街との繋がりは完全に無くなったんだなって思ったら、なんだかスッキリしたなって思っただけ」
「そっか。よかった」
ふと、いつも二人で通っていたあのカフェの事を思い出した。あの場所にもきっともう二度と行けないだろう。挨拶したくても、今日はとっくに閉店時間を過ぎている。あの店員さん、なんだかんだで優しかったな。学校の先生よりも、親よりも、ずっとまともな大人だったのかもしれない。そう考えると急に後ろめたさを感じたけれど、私達の事を救ってくれるわけじゃない。赤の他人だ。私達が突然店に来なくなってもあの人は気が付かないし、きっと何年先も同じような時間をこの街で過ごすのだろう。私の想いに同意するように、藤野が急かす。
「じゃあ、時間も無いし駅に向かおうか」
「うん」
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