3,星の子

 (手を合わせ、祈りを捧げる人達が画面に映っている)

 ──平和。戦も飢えも無い現代日本にも、救いを求めている人で溢れかえっています。江戸時代末期以降に生まれた、いわゆる新興宗教は今なおその数を増やし続けているのです。今回はそんな新興宗教について、徹底的にリサーチしていきたいと思います。

──振り向けば、隣の家も教祖様。

 (画面に『古今東西! 新情報発見』のロゴが表示される)

 (画面が切り替わり、掃き掃除をする女性が映る)

 ──今回ご紹介するのは、台東区に住む想望院桜妃さん。熱心に玄関先を掃除するこの女性、どこにでもいる普通の主婦に見えますが、なんと信者数四千人を抱える新興宗教、『さくら教会』の教祖様。

 (画面が切り替わり、忙しなく身支度を整えている想望院桜妃が映る)

 ──本日は朝から地方巡業。全国に二百三十二の支部を構えるさくら草教会。教祖である桜妃さんは信者との心の距離を何よりも大切にしている為、定期的に全国の支部に直接訪問し、講演会や相談会を行っているんだとか。

 (画面が切り替わり、新幹線の座席に座り食事をする想望院桜妃。背後の車窓には富士山が見える)

「やっぱりこの移動時間がいいですよね。──これから出会う方達が、たくさんの方が救われる事を考えると、胸が踊りますわ」

 (想望院桜妃の子供時代の古い写真が映される。BGMがオルゴール調になる)

 ──桜妃さんは地方で生まれた至極普通の少女であった。ところが中学二年生のある日、クラスメイトからいじめを受けてしまう。徐々に学校を休みがちになった桜妃さんは、そのまま六年間、引きこもりになってしまったそうです。

「辛かったですよ。人間が怖かった。自殺もね、うん、何度も考えましたよ」

 ──そして二十歳になったある日、ある夢を見ます。

「寝ている時にね。目の前にすごく眩しい人が下りてきてね。うわ、眩しいなー、と思ったら私に、多くの人を救いなさい。そうすればあなたも救われますって言うんです。それから体がぐあーっと熱くなって。目が覚めてからですね。この力が使えるようになったのは。それからは外にも出られるようになりました」

 ──神のお告げ。天啓とでも言うのだろうか。その日から彼女に、霊視の能力が身についたそうです。

 (名古屋駅の構内を歩く想望院桜妃。別の改札へと向かっている)

「大人になってからみんなね、何かしら後悔してる事あるでしょ。あなたもあるでしょ、違う? あの時想いを伝えていればよかったなーとか、あの時虐められた事を絶対許してないぞとか。そういうのはね、呼んじゃうんですよ。同じように後悔している人の悪い気を。──青春っていうんですかね。青春の、悪霊みたいなもんですかねぇ」

 (ふたたび電車に乗る想望院桜妃。車窓の景色を見ながら話す)

「後悔をしている気はね、限界が来て自分ではどうしようもなくなると、溢れたものが他の人のところに飛んでいくんですよ。私が救ってるのは依頼者というより、そういった気のほう。取り付いている悪霊のほうなんですよ」

 (さくら協会岡崎支部の建物が映る)

 ──そんなわけで彼女がやってきたのは、愛知県岡崎市にある協会の支部。本日は参加自由の講演会と、まだ入信していない人限定で行われる相談コーナー。なんとどちらも予約は満席。会場はすし詰め状態である。

 (壇上で演説をする想望院桜妃。テロップで[講演会参加費 五千円]、[相談料(初回のみ)一万五千円]と料金メニューが表示されている)

 (画面が切り替わり、信者によって応接間に通された相談者が映っている。画面下部には[中村宏美さん(35)]というテロップが表示されている)

 ──この相談者は市内に住む主婦。育児ノイローゼになってしまい、何もやる気がしないと悩んでいるという。この教会には娘のクラスメイトのお母さん、いわゆるママ友に連れて来られたんだとか。

 (机を挟んで向かい合わせに座る主婦と想望院桜妃)

「宏美さんに憑いているあんたは誰? 何を後悔しているの?」

(宏美と呼ばれている主婦、テーブルに置かれた紙を前にして鉛筆を握ったまま泣いている。睨みつける想望院桜妃)

「ん? 書いてみな? 何をやり直したいの?」

 (泣きながら頷く宏美)

 ──桜妃さんが相談者に語りかけると、彼女は無意識にペンを動かし始めます。

(紙に『うまれてこなければよかった』と書かれる)

「みんな、無視するの」

「誰が無視するの?」

 ──桜妃さんによると、彼女に憑いている悪霊は今もどこかに住んでいる少女の生霊だという。両親から育児放棄を受け、助けを求めている。そんな少女の生霊が宏美さんに取り憑いて、悪さをしているんだとか。

「アパートに住んでるのね。そこからは何が見える?」

「……大きい公園」

 ──相談前の印象からは想像も付かないような幼い口調で話す宏美さん。会話を重ねる度に少女の生霊は徐々に打ち解け、話し始めます。取り憑いている霊の遺恨が晴れれば、取り憑かれた人の体の病や心の病がかき消されるように消滅していくというのです。

 (想望院桜妃だけを映したインタビュー映像に切り替わる)

「霊も本来は人間ですからね。話をすれば解決します。どちらも悔いを残しているだけなんですよ。ここに来る人は──特に大人の女性なんかはね、ずっと一人で苦しい思いをしているんですよ。救われなきゃだめなの──」

 (インタビューの音声を活かしたまま、なにかに取り憑かれたように叫び暴れる女性と、取り押さえるの信者の映像が流れている)

「そういう人に取り憑いた霊の悩みを聞くことで、霊も救われるし、取り憑かれた人も悔いを残さず自分の人生を歩んでいける──」

 (取り押さえられた女性を卒塔婆のような板で叩く想望院桜妃。やり直せ、やり直せと絶叫を繰り返している)

「多少強引なやり方であっても、そういう活動を繰り返していけば、すべての大人が過去を悔やまずに、前を向いて生きていけると思うんですよね」

 ──悩める大人たちを救うため、今日も彼女は邁進する。

 ──さあお次は全国に存在する進学……


 (再生が止まり、青い画面の左上には『停止』の文字が表示されている)


 家に帰ると、再生の止まったビデオデッキの青い画面が、電気の付いていない部屋を煌々と照らしていた。涅槃仏のような姿勢でテレビの前に寝転がるママの半身も青い光に照らされている。テープが擦り切れるんじゃないかと思うくらい繰り返し観ているそのビデオの内容を、私も覚えてしまっていた。これを観ている時のママは、たいてい機嫌が悪い。

「……ただいま」

 私が電気を付けると、ようやくママは動き出し、ビデオデッキの電源を消した。ため息を吐くと、振り向く事なくテレビ画面の反射越しに私に話す。

「おかえりなさい」

 ワンピース姿で佇む私と、声色だけは優しいママに似つかわしくない家。木造二階建ての戸建ては、青い瓦屋根も色褪せていて、壁のそこらじゅうにヒビが入っている。日曜大工で庭に増設された車庫は波板やトタンでツギハギになっていて、グロテスクにカラフルだった。洗面所にはゴキブリがしょっちゅう出るし、浴室のタイルの割れ目からコウガイビルが顔を出すこともあった。トイレは時代に取り残された汲取式。月に一度、汲み取りのバキュームカーが来る直前には便槽の汚物がせり上がって来て、しばらく掃除をしないと白い蛆が湧く。

 こんなボロ屋でも数年前までは幸せだった。パパが家を出るまでは──。

 すべての原因は、家が貧乏だったせいだと私は思っている。物心付いた頃から両親は共働きで、家では一人で過ごすことが多かった。それでも夜には二人とも帰ってくるし、その頃は友達もたくさんいたから寂しくは無かった。ママがおかしくなり始めたのは、私が中学に入学した頃からだった。仕事と家事の両立に限界を感じたのか、虫の居所が悪い日が徐々に増えていった。時々ヒステリーを起こして私やパパに当たり散らすこともあった。そんなママに救いの手を差し伸べたのは、当時私のクラスメイトだったさっちゃんのママだった。さっちゃんのママは私のママをさくら草教会のセミナーへ連れて行った。セミナーから帰ってきたママはすっきりとした様子で、私とパパに入信をすることを告げた。

「ご飯、外で食べてきたから」

 冷蔵庫から麦茶の入ったボトルを取り出してグラスに注いだ。シンクには洗われていない食器が積み重なっている。麦茶を飲み干すと、スポンジに洗剤を付け、たった今使ったグラスだけを洗った。

 信者になったママはあまり家事をしなくなった。「大人こそ子供らしく生きる」という教会の理念に従って、やりたくない事はやらないという選択を取るようになった。はじめは大変なママの気持ちを汲んで、私とパパで家の事を全部やった。それだけならよかった。

 だんだんママは教会で売っている如何わしい水にも手を出すようになった。教祖が清めたその水は、飲めば憑いている悪い気がすべて体から排出されるという。ママが家事を放棄した上に、わけのわからない詐欺まがいの水に手を出した事に嫌気が差したパパは、ついに離婚を決意した。

 出ていくパパをママは罵った。他に女を作っているだの、ギャンブルで散財しているだの。優しいパパがそんな事するわけないと私は信じて、パパに付いていくと泣きついた。けれどパパは私を拒否し、ママは私を引き止めた。ママには何も残さず、私にはお気に入りだった黒のジャージを残してパパは家を出ていった。

「ださいジャージなんかより、やっぱりあんたは可愛い服のほうが似合ってるわ」

 振り向き立ち上がったママは、冷蔵庫から水のペットボトルを取り出して、そのまま直に一気飲みした。シンクに向かうと、ペットボトルの水を片手の平に出して器用に顔を洗い始めた。

 キッチンの蛍光灯がジリジリと静かに音を立て、ママの見窄らしい背中を照らしている。光の届かない足元には空のペットボトルの山が散乱している。

「ようやく決めたって事でいいの?」

 タオルで顔を拭きながらママが言った。

「バカ言わないでよ、そんな訳ないでしょ」

「まあ良いわ。とにかく明日の集会には来なさい。もうすぐ十八歳なんだから、いい加減覚悟を決めなさいよ」

 毎週日曜日の午前中、ママは教会で行われる集会に足を運んでいる。パパが出て行ってからママを一人ぼっちにさせたくなくて、ママの活動に付いていく事が度々あった。当時市内にはまだまだ信者が少なく、啓蒙活動に精を出している信者は本部から直々に評価を貰える事が多かった。私のママも認められたい一心で信者を増やす為にビラを配り、勧誘活動に勤しんでいた。

 私やさっちゃんのママが変な宗教に入っていると学校では密かに噂になっていることを知っていた。でも私達自身は変わりなく過ごしていたから、クラスメイト達は知らないフリをしていた。幸いにも同じ高校に進学するクラスメイトが誰一人いなくて、卒業後は他人の目を気にすることは少なくなった。

 宗教にハマったとはいえ、女手一人で私を育ててくれるママにはなんだかんだ感謝していたから、家事もできるだけ手伝うし、買い物にも付き合っていた。

 週末の夜。その日も近所のスーパーにママの車で買い物に行った。買い物を終えて荷物を車に置いたママは後部座席からビラを取り出して、私を引き連れて駐車場をうろついた。

 目についた主婦と思しき女性に声をかけ、呼び止める事ができればビラを渡して活動内容について詳しく説明する。ママが暴走して他人に迷惑をかけないように、見張るのが私の役目だと思っていた。赤い軽自動車の鍵を開けようとしていた女性にママが熱心に話している時、車内から顔を出した少女が言った。

「もしかして、中村さん?」

 顔を出したのは中学二年生の頃に同じクラスだった、林さんだった。

「沙也加のクラスメイト? ちょうど良いわ! 来週も集会があるんですよ。良かったら説明会だけでも是非……」

 勧誘活動に捕まる自分の母親のことなど気にも留めないといったふうに、車から出てきた林さんはにやにやしながら私に向かって言った。

「中村さんの家が変な宗教にハマってたの、本当だったんだ」

「……私は違うけど」

「でも、一緒にビラ配ったりしてるんだね」

 翌日から私は、クラスメイトから距離を置かれるようになった。後で知ったのだが、林さんの姉が私と同じ高校にいたのだという。平穏だと思っていた私の高校生活は突然、孤立無援の世界になった。

 それまでもそれからも、私をこの世界に留まらせていたのは、辛うじて持たせてもらっていたスマホで通じ合う外の世界との交流と、映画の世界だった。留まらせていたというよりは、希望を持たせてくれていたという言い方のほうが正しいかもしれない。

 この街の人々は、この世界になんの不満も疑問も持たずに日々を過ごしている。この街で起こる事、出会うものが幸福の最上限だと思って生きている。この街よりも外側の世界と、映画の中にあるフィクションの世界を知ってしまった私には、この街も、この街に住む人も、あまりにも退屈で陳腐に見えた。そんな人達よりも哀れな生活を強いられている事実に絶望しそうになりながらも、子どもの私には自分の力で生きていくことも、この街から出ることも出来なくて、退屈や不幸な現実から目を背ける以外の術を持っていなかった。

 ある日、野球のルールを知らない人限定で行う野球の企画を思いついた。参加者を募った私の投稿は奇跡的にバズって、なにもない街に様々な場所から見ず知らずの人たちが集まった。それだけでも一生忘れないくらい楽しい日だったのに、私は出会ってしまったんだ。

 私達が公園のグラウンドで野球をする傍ら、その子は一人ベンチに座っていた。転がったボールを取りに行くついでに横目で見てみると、映画のパンフレットを読んでいるようだった。ベンチには彼女一人だったから一人で映画を観てきたのだろうと思った。その状況が、その表情が私には、どこか寂しそうに見えた。

「突然だけど、一緒に野球しない?」

 私は彼女に声をかけた。その時は深く考えてなかったけど、親近感を感じたのかもしれない。だから友達になりたくて、もしこの世界がつまらないと感じているのなら、その気持ちを分かち合えると思った。

 彼女は藤野と名乗った。下の名前は分からない。背が低くて、まんまるな目をしている。背が高くてのっぺりした顔がコンプレックスの私とは真逆の可愛らしい女の子だった。藤野は私と同じくらい映画を観ていた。何を話しても通じるのが楽しくてしょうがなかった。藤野は二歳上の私よりもずっとしっかりしていた。

 藤野は私の事を詮索しないでくれていた。ママの事、宗教の事は話したくなかったから都合が良かった。藤野の家は貧しくもなく、親との仲も悪くないように見えたけれど、家の話をしている時の彼女は、あまり楽しそうに見えなかった。

 学校や家の息苦しさをじっと耐えて、藤野に会える時にだけ息継ぎが出来る。そんな毎日がしばら──

 ダンッ。

「おい、聞いてんのかって言ってんだよ!!」

 ママがダイニングテーブルを力任せに叩き、並んだ調味料の瓶が、がちゃがちゃと鳴る音で我に返った。

「ごめん、聞いてなかった。なんだっけ」

「明日の集会は婚礼の儀の説明会があるから絶対出ろって言ったの。何回言えばわかんの。あんたの為だからね。幸せになりたいでしょ?」

 私の為? 親が入った意味のわからない宗教の教えに従って、信者同士の子供が結婚することが本人の幸せ? 脳みそがイカれている。

「はいはい、ナントカ院の教えね。……うっさいなぁ」

「おい、ふざけてんのか……? 想望院桜妃様だ。いい加減ちゃんと覚えろ!」

 いい加減うんざりした私は二階にある自室に戻ろうとリビングのドアノブを握った。メッキがつるつるに剥げたドアノブはがたがたに緩んでいて、うまく角度を付けて回さないと開かない事がある。何度も回しているうちに、突然鈍い音とともに後頭部に衝撃が走った。

 視界がぐらりと真横に歪んで、気が付いた時には眼前には汚れてくすんだカーペットと毛や埃の塊が映っていた。痛みが走る後頭部を押さえながら起き上がり振り向くと、卒塔婆のような木の板を持ったママが泣き笑いの表情でこちらを見下ろしている。

「こんなに愛情持って育ててやったのに、なんで、なんで」

 突然の暴力に怒りが湧くどころか、頭はすっきりしていた。何もかも、全てがどうでも良くなってきた。ママも私もちゃんと生きていたはずなのに、なんでこんなふうになっちゃったんだろう。

「私、生まれて来ないほうが良かったのかもね」

 私がそう呟くと、ママは今にも泣き崩れそうな顔で言った。

「違う。沙也加が教えに従わないからだよ。教えに従って、ちゃんとやり直せばママも沙也加も救われるのに。あんたがいつまでも反抗するから私達はこんな汚い家に住んで、パパも出ていって、ずっと不幸なの。わかる? あんたは自分の事しか考えてないから、こうなるの」

 ママは床に転がった飲みかけのペットボトルを手にとって、私の頭上で開けた。じょろじょろと生ぬるい水が、清められた薄汚い水が私の髪から滴り、服を濡らしていく。空になったボトルを捨てて、木の板を持ち直す。

 ママが深くと息を吸い込んだ瞬間、私の頭に、肩に、背中に、再び衝撃が訪れた。

「やり直せ! やり直せ! やり直せぇ! やり直せーーー!」

 私の体を何度も何度も叩く。水をかけられた場所は叩かれる度にびちゃびちゃと汚い音を立てる。叩かれながら私は、どうしたら私達が幸せになるかをちゃんと考えてみた。もう百回は考えた。ママが大変じゃなくて、寂しくなければいいだけなんだ。貧乏なのにママだけが働いて、ママが家事を全部やらなければいけなくて、家が汚いからいけないんだ。だから私が働いて、ママを支えてあげればいい。そう思って学校も福祉科を選んだ。学校を卒業したら就職するつもりだったし、福祉の仕事を選んでいれば年を取ったママを支えることも出来る。そう思っていたのに、だんだん自分の選択が分からなくなってきていた。本当にそれがママの幸せなのか、私の幸せなのか分からなくなってきた。

 叩かれる痛みに耐えられなくなった私は、背負っていたリュックを下ろしてママの攻撃を防いだ。ママは依然として叩く手を止めない。そのうち衝撃でリュックから何かがひらりと床に落ちた。手を休めたママはぜぇぜぇと息を立てながらそれを拾い上げた。

「あんたもいっちょ前にプリクラなんて撮るんだ。笑える」

「……返して」

 私の言葉を無視したママは、私と藤野との大切な思い出を、ぐしゃぐしゃに破り、ゴミ箱に向かって投げた。私の中で何かが消える音がした。掲げていたリュックを床に投げ捨てて、ママの胸ぐらを掴んだ。

「ちょ、ちょっと! なにすんのよ! 痛い! 離しなさい!」

 抵抗して私の腕を掴もうとするママの手を振りほどきながら、そのまま勢いに任せて押し倒そうとした。動けないように押さえつけるだけのつもりだった。ママが足を踏み外して、ぐらりとバランスを崩した。私の体重もそこに加わって、

 ゴスッ。

 ママの後頭部が、開けっ放しになっていた箪笥の引き出しの角に当たった。

 ぐったりと床に項垂れるママ。私は慌てて立ち上がった。目を見開いたまま動かないママを目の前にして、頭の中が真っ白になった。繰り返し名前を呼んでみるけど、返事が無い。もしかして、

 死んだ?

 殺した?

 私が殺した?

 まずは救急車? でも、もし、手をかけたのが私だということがバレたら? 逮捕される? 少年法は? 私の人生、ここで終わり?

 この最悪な街の、最悪な家で。

 ──暗く静かな部屋に心臓の鼓動だけが騒がしく鳴り響いている。私が判断を決めあぐねていると、突然玄関のチャイムが部屋中に鳴り響いた。その瞬間、全身を硬直させて無意識に音を殺した。そのままじっとしていると、玄関を叩く音が聞こえた。しばらくすると、

「中村さーん。いますー?」

 玄関先で男性の声が聞こえる。佐々木さんだ。ママと同じ信者である佐々木さんは月に一度、会報誌を持ってうちにやってくる。いつも平日の朝とか、休日の夜とか変な時間にやって来る。今日は特に最悪のタイミングだ。しばらく息を潜めて居留守を使っていれば、帰ってくれるかもしれない。

 しかし私の願いとは裏腹に、玄関のドアノブをひねる音がした。

「中村さん、不用心ですよー。沙也加ちゃんもいるんだから」

 廊下の床板が軋む音が近づいてくる。私は音を立てないように床に落ちたリュックを拾うと台所へ向かう。勝手口のノブを慎重に捻り、外に飛び出した。目の前にある塀を登ると幸いにも隣家の明かりは付いていなかったので、四つん這いになり塀伝いに玄関先へ向かう。トイレの窓に面するあたりまでたどり着いた時、家の中から佐々木さんの叫び声が聞こえた。最悪の想像が脳裏を過る。

『愛知県岡崎市の民家で女性の死体が見つかった事件で、愛知県警は三日、母親である女性を殺害したとして、市内の女子高校生を殺人の疑いで逮捕した──』

 ここで終わってたまるか。私は物音が立つのも気にせず、玄関先に停めていた自転車に飛び乗り、振り向く間もなく全速力でペダルを漕いだ。

 表の道を左に進みしばらく走ると長い下り坂がある。そこを自転車で降りれば車でも無ければ追いつけないだろう。家の駐車場に車は停まっていなかった。

 坂の中腹にある竹林から冷たい風が吹き抜ける。もう虫の音は聞こえない。

 坂を下り終わって信号待ちをしている最中に、リュックからスマホを取り出して藤野宛のDM画面を開く。──本当は巻き込みたくなかった。それでも、私が頼ることの出来る相手はもうこの世界に彼女しかいなかった。急いで私の電話番号を彼女に送信する。信号が青に変わり、私は藤野の家の方向へとペダルを踏み込んだ。ママに手をかけてしまった事が、全速力で家を飛び出した事が、藤野に頼ってしまった事が、その全てが私の呼吸を乱す。

 だいぶ家から離れたので漕ぐスピードを落として自転車を走らせていると、ジャージのポケットに入れていたスマホが震えた。しばらく振動を続けていたので自転車を停めて画面を確認すると、知らない電話番号からの着信が表示されている。恐る恐る通話ボタンを押す。

「もしもし、オニール……の番号で良いんだよね。どうしたの?」

 その声を聞いた瞬間、全身のちからが抜けて自転車のハンドルに項垂れる。今すぐ助けてほしいのに、何から話したらいいか分からなくて、涙が溢れてきて、声にならない。私の嗚咽は横を通り過ぎる車の走る音でかき消されて、藤野には届いていない。

「もしかして、何かあった? 今外にいるの?」

「……うん」

「公園まで来られる?」

「……うん」

「すぐ行くから、そこで落ち合おう」

 電話を切って深呼吸をした。手の甲で涙を拭って落ち着くと、靴を履かずに家を飛び出してきた事に今更気がついた。でも止まっている時間は無い。足の裏にペダルの凹凸を食い込ませながら、再び漕ぎ出した。

 休日は二十時を回ると、外を出歩く人がぱったりといなくなる。通り過ぎる民家やマンションの窓には明かりが灯り、幸せな家庭の風景を想像させる。誰も窓の外なんて見ていなくて。惨めな格好で自転車を漕ぐ私には都合が良かった。

 公園に着くと、入り口のロータリーに見知った小さな影が自転車を携えて立っていた。私を見つけると自転車のスタンドを蹴り上げて、こちらに向かってくる。

「オニール!!」

 不安で、悲しそうな表情をしている。やっぱりこんな顔、見たくなかった。

「とりあえず、公園に入ろう。街灯のあるところで話すよ」

 藤野をUターンさせて公園に入り、二台の自転車を並べて止めた。その瞬間、藤野は私の事を思いっきり抱きしめた。

「……なんで靴履いてないの? なんで泣いてるの? ──全部話してよ」

 藤野のつむじが私の顎に当たる。シャンプーのいい匂いがして、安心する。私も彼女を抱きしめ返した。本当はもっと早く、笑顔で、こうしたかった。

「うん。全部話す。全部話すけど、ちょっと疲れた。座らせて」

 私の胸の中で藤野が頷いた。公園のベンチに腰掛けて、夜風に当たりながら再び深呼吸をする。隣に座る藤野は私の答えを待つようにこちらを見ている。

「さて、どこから話そうかな……」

 拗ねた子供のように「全部」と一言で答えた藤野は、私の手をずっと握っている。

「この公園で、初めて藤野と出会った時の話」

「うん。聞きたい」

「映画のパンフレットを読んでいたのが気になって、話しかけた」

「それだけ?」

「うん、それだけ」

「……もっとロマンチックなのかと思ってた。急に知らない女の子から野球に誘われるなんて、映画みたいで素敵だったの。──話しかけられる前から、なんで野球してるんだろうって、見てたの」

「野球くらいするでしょ!?」

「だって誰一人としてルールを理解してなかったじゃん。そこに女の子が一人いたら誰だって気になるよ」

 藤野が笑ってくれて、私も自然と笑った。それは、私よりも先に私の事を見つけてくれたのが嬉しかった事の照れ隠しでもあった。藤野は続ける。

「帰り道にいろんな話をしてたら、どんどん好きになってた」

「……私も。──もっと話したくて、ずっと一緒にいたかった。同じ学校に行きたいって言ってくれて、本当は嬉しかった。あの時、突き放すような事言って、ごめんね」

「学校は必要な世界じゃないって言ってたの、覚えてるよ。それも詳しく話して」

 私は答えるのに渋ったけど、藤野は私が答えるまで黙って待ってくれた。

「……虐められてるんだ。──いや、語弊があるかもしれない。ただ、無視されてるだけなんだけど」

 私が俯くと、藤野は私の肩に頭を寄せた。

 それから私は、ママが宗教にハマり、そんなママに愛想を尽かしたパパが家を出ていき、クラスメイトにママの宗教がバレて孤立してしまったという事の顛末を話した。藤野は急かすことなく、ただ頷きながら話を聞いてくれた。握られた手から伝わる熱が徐々に強くなっているような気がした。

「家の事、藤野だけにはずっと知られたくなかった。あんたの存在だけが私の救いだったから、嫌われたくなかった。怖かったよ」

「そんな事で嫌いになったりしないよ」藤野は微笑みながら続ける。「──私ね、ずっとオニールみたいになりたいって思ってた。いつも元気で、楽しいことをいっぱい知っていて、飾らないでいるの。でもそれってずっと辛くて、苦しくて、無理してたんだね。偉いよ」

「無理なんかしてない。藤野の前だからそういられたんだよ。何も聞かないで、なんでも私に付いてきてくれて、ありがとう」

「私は何もしてないよ。いつもオニールに合わせるだけ。自分で決めないのが一番楽だから。楽してるずるい人間なの」

 それでも私は、そんなずるに救われ続けていた。何も聞かないでなんでも聞いてくれる藤野が大好きで、私の居場所だった。

「──あっ、両親の話は分かったけど、どうして今日はこんな事に……?」

 さっきまでの出来事を思い出した途端、寒気がした。私は泣いてしまわないように、ゆっくりと順序立てて、言葉を紡いだ。

「信者の子供はね、十八歳になったら信者の子供同士で結婚させられる事があるんだ。……もちろん、全員がそうするわけじゃないよ。今日、藤野と別れて家に帰ってから、そのことでママと喧嘩しちゃってさ。棒で叩かれたり頭に水かけられたり、それはいつものことなんだけど。藤野と一緒に撮った……を……ママが──」

 泣かないと決めたのに、自然と涙が溢れてきて声が出なくなる。

「……今日撮ったプリクラの事?」

 私は必死で頷いた。彼女は背中をさすってくれている。

「──ビリビリに破いたから、腹立って、突き飛ばしちゃった。ママを。そしたらママ、箪笥に頭ぶつけて、動かなくなっちゃって」

 藤野は立ち上がって、もう一度、私を強く抱きしめた。その腕は少し震えている。

「殺しちゃったのかな」

 私は人殺しだ。つまんない街で、貧乏な家で、周りの幸せな人の事を心の中で馬鹿にしながら生きてきた。そんな最低な私の人生は、哀れにも殺人という罪を犯したせいで終わりを迎えた。親殺しの犯罪者。

「私、人殺しなのかな」

 事実は覆らないのに、最低な私は彼女からの優しい言葉を期待している。抱き寄せられた胸元から熱が伝わる。その温かさに余計に涙が止まらなくなる。

「オニールは悪くないよ。大丈夫。大丈夫だから。私がいるよ」

 彼女が話す度につむじのあたりで髪越しに顎の動きが伝わってくる。

「これから、どうすればいいんだろう」

 私の問いかけに、藤野の鼓動が早くなる。風が吹いて、青い葉の匂いがする。

「──逃げちゃおうか。二人で」

 瞬間、世界の音が全部無くなって、この世界は私たち二人だけになってしまったような気がした。驚いて顔を上げると、藤野は頬に涙を伝わらせながら黙って微笑んでいた。彼女の背後には青黒く塗りつぶされた空に満天の星が無数に瞬いている。その中でもひときわ強い光を放つ北極星が彼女の頭上で煌めいていて、ここがこの世界の、銀河の中心なんだと錯覚した。

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