第26話 待ち合わせ(二人の原点、二人の憧れ)
時は少し遡る。
春人が優夏の部屋を訪れてから、約二時間後。
午後三時半を少し回った頃、優夏の自宅のチャイムが鳴った。待ち合わせしていた人物が、漸く現れたと思ったら、時間より四十分近くも遅かった。
「あーユウちゃん、会いたかった!」
玄関を開けるなり、その人物は嬉しそうな表情で優夏にハグをする。
「やっとたどり着いたぁ。ごめん! 遅くなって。道に迷っちゃってさー」
「心配してたのよ。もう。相変わらずね、さと兄は」
優夏が心配顔で、玄関にその人物を迎え入れる。
「おかしいなー。早めに出たのに……ほんとごめんな」
さと兄と呼ばれた人物は、しゅんとした表情で謝る。
この人はとてつもない方向音痴だ。家から五分の直ぐ近くの場所でも、あらぬ方向へ曲がったりして、三十分ほど迷ったりする。ここのマンションの前まではタクシーで来れたらしいが、近くのコンビニに寄ったら迷ったらしい。
「えっ、嘘でしょ。マンションの前まで来たのに迷っちゃったの?」
「その前にコンビニに寄ろうと思ったらさぁ……はい、おみやげ」
優夏はさと兄に袋を手渡される。中に入っていたのは、わらび餅やプリン、シュークリームなどのコンビニスイーツだった。春人や優夏、優夏の姉たちの好物だ。
「ありがとう。エントランス、いえコンビニまで迎えにいけばよかったわね」
「いや、そこまで頼むのは流石に情けないって」
優夏は廊下を歩いて、しょんぼりしているさと兄を部屋まで案内する。
部屋で待っていた春人が、その姿を見て微笑んだ。
「一週間ぶりだね、さと兄」
「春人! 会いたかったよー!」
さと兄は目を輝かせて、春人に抱きついて、よしよしと撫でる。
「ウメハルも、よしよし~」
ベッドの上に寝ていたウメハルも、さと兄に撫でられて、喜ぶように「にゃあ」と鳴いた。
さと兄は、春人の父親・蒼悟の弟、つまり春人にとっては叔父にあたる。
蒼悟よりも十歳下で、今年三十三歳だが、実年齢よりもかなり若く見える。後ろで一つに結えている髪を下ろせば、肩につくぐらいの長さがあり、中性的で整った顔立ちをしているからだろうか。
方向音痴で、少し子供っぽい雰囲気のあるさと兄は、甥っ子である春人とその幼馴染の優夏を、赤ん坊の時から弟のように可愛がっていた。およそ十年前、家出同然で佐原家を飛び出して、今は遠く離れた場所で暮らしている。
あの厳しい祖父・行哉からすれば、この人の破天荒ぶりは、佐原家の人間として許せないところがあるのだろう。親子である行哉とさと兄の関係は最悪で、もう何年も会っていない絶縁状態だった。
今日、春人と優夏は、さと兄と会う約束をしていた。佐原家の実家では会えないので、こうして優夏の部屋で待ち合わせしていたのだ。
「兄さんは元気?」
さと兄が、春人の父・蒼悟のことを尋ねる。
「元気にしてるよ。さと兄に会いたがっていた」
春人がそう答えると、さと兄は嬉しそうに微笑んだ。
蒼悟とさと兄の兄弟仲は、とても良好だ。いや、良好の度合いを超しているかも知れない。さと兄はブラコンと言えるほどお兄ちゃん子で、かたや蒼悟も、年の離れた弟を溺愛している。電話はしょっちゅうしているらしい。ただお互いに忙しく、実家には行哉もいるので、二人はなかなか会えていない。
だが、一週間後の祭りの日、二人は久しぶりに会えることになっている。
「今度のお祭りで、兄さんに久々に会えるから楽しみだなぁ」
さと兄は嬉しそうに、にこにこしながらそう言うと、思い出したように「あっ」と声を上げた。
「本当にあの人来ないよね?」
さと兄が苦虫を潰したような顔をして、春人に尋ねる。あの人、とは行哉のことだろう。
「あの人は、隣の市の祭りに呼ばれてるみたいだから。その代わり、父さんがこっちの祭りに来るって」
「それならよかった」
春人の言葉を聞いて、さと兄はあからさまにホッとした表情になる。
おそらく、蒼悟が弟のために、そうなるように手を回したのだろう。今回の祭りに、市議である自分が行くよう手配して、行哉が来ないようにスケジュールを先に押さえておいたのか。
「祭りのイベントの件だけど、どう? いけそう?」
さと兄が、春人と優夏を交互に見て聞いてくる。
二人が今回の祭りのイベントに出ることになったのは、さと兄からの誘いを受けてのことだった。一週間前に会った時に、さと兄から「弾いて欲しい」と渡された曲の譜面は、二人とももう一通り頭に叩き込んである。
「いけるよ、いつでも」
「そうね、大丈夫よ」
聞かれた二人は、にっこりと笑って答えた。
「さすがは、俺の弟子」
二人の心強い返事に、さと兄もにっこりと嬉しそうに微笑む。
「春人とユウちゃんのおかげで、最高の舞台になりそうだ。最終的なリハは、祭り当日になっちゃうけど、二人なら問題無さそうだね」
さと兄はそう言って、春人と優夏の頭をわしゃわしゃと撫でた。
この人ぐらいだろう。高校三年生、すっかり大人びた二人の事を、こうして子供のように撫で回すのは。
さと兄こと、
春人と、その幼馴染の優夏は、生まれた時から朱理に兄弟のように可愛がってもらっていた。春人たちが物心ついた頃には、朱理は毎日仲間たちとバンド活動に明け暮れていて、二人はすぐそばで、彼が作る音楽を聴いたり、楽器に触れたりしていた。その影響だろうか。春人と優夏も、いつしか音楽をやるようになった。
朱理の作る音楽は、とても煽情的で、聴く者を惹きつけてやまなかった。
春人と優夏が小学生に上がる頃には、彼はロックバンド『ユアリアル』のギタリスト・
二人にとって、朱理は憧れだった。
ただあるがままに、自分自身の音楽を自由に奏でる朱理の背を、春人と優夏はずっと見てきた。
自由奔放で何ものにも縛られない彼は、規律やしきたり、伝統、そして外聞や体裁を重んじる家柄の佐原という家の中では、窮屈でしか無かっただろう。
当主であり、佐原家を背負う行哉は、勝手気ままな朱理を許すことが出来なかった。家に縛りつけようとする行哉と、自由になりたい朱理は何度も衝突した。今は温厚な朱理もその頃は荒れに荒れていて、春人たちが近寄り難い時もあった。
それを見かねた兄・蒼悟が、可愛い弟の自由を守るために、父と弟の間に立ち尽力してくれたのだ。
そのおかげでついに、朱理は家を捨てて、風のように飛び出して行ってしまった。
本格的に音楽の道へと進んだ朱理は、バンド『ユアリアル』のSYURIとして、人気を博していった。
『ユアリアル』の楽曲全てを作曲するギタリスト。バンドメンバーのうち一人だけ面を被っていて、世間には顔は知られていない。だが、その謎めいた姿と卓越したギターの音色に、多くの人が心を奪われた。
そのうちの一人が、晶矢だった。
SYURIに影響を受けて、音楽を始めた三人が、偶然にも出会ってしまった去年の春。
軽音部の入部見学に来た晶矢に、春人と優夏は衝撃を受けた。SYURIの音楽に影響を受けながらも、自分らしさを失わない真っ直ぐな晶矢の音色に。
そして、その晶矢が涼太郎というパートナーを得て、自分たちの音楽というものを、春人と優夏に見せてくれたことで、どうしても一緒に音楽をやりたい気持ちが、膨れ上がってしまった。
「さと兄、お願いがあるんだけど」
春人が、朱理にボサボサにされた髪を整えながら、おもむろに言った。
「なあに?」
朱理が優しく微笑んで尋ねる。
「当日、イベントの前に、俺たちに少し付き合ってほしくて」
「リハの合間ならいいよー。けど、何するの?」
朱理が問うと、春人は真剣な表情をして、朱理を見つめて言った。
「さと兄に、俺たちの音楽を、聴いてほしい」
その言葉に、朱理が「へえ」と呟いてニヤリとする。
先日、イベントの打ち合わせで、春人たちと会った時、朱理は聞かされていた。春人たちが、一緒に音楽をやりたいと思った『二人』のことを。
「もしかして、この間言ってた子たち、来るの?」
朱理の窺うような目線に、春人と優夏はこくりと頷いた。
(春人とユウちゃんが、一緒にやりたいなんて、よっぽどの子たちだろうなぁ)
本人たちに自覚はないようだが、この二人は本来であれば、表舞台でも十分通用する実力を持っている。だからこそ朱理は、今回のイベントのメンバーにこの二人を選んだのだ。
小さい時から、自分の音楽に身近で接してしまったせいか、二人は同じ年頃の子たちと一緒に音楽をやっても、どこか満たされていないことに、朱理は気づいていた。
この二人が組みたいと言ったその子たちには、朱理も興味があったが、まさかその音楽を、目の前で自分に聴いて欲しいだなんて。
今までそんなことは言われたことが無かった。
真剣に自分を見つめる二人の眼差しの奥に、情熱が垣間見えて、朱理は嬉しくなる。
(二人もやっと、心から一緒に音楽をやりたいと思えるやつらに、出会えたんだねぇ)
でも、と朱理は僅かに目を細める。
(何でそんなに不安そうなのかな?)
二人のその真剣な眼差しが、不安げに揺れていたのを見逃さなかった。
「いいよー連れといで」
朱理は、また二人の頭をよしよしと撫で回しながら、にっこり笑って頷いた。
この二人がどういう想いで自分に「音楽を聴いてほしい」と告げたのか。
そして不安気にしているのはなぜなのか。
どちらにしても、当日分かることだろう。
(この子達、どんな音楽を奏でるのかなあ)
朱理は心底楽しみで仕方なかった。
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