第20話 海と水族館⑦(波打ち際にて)

 境内の端の方は、展望デッキになっていた。


 眼前に広がる空と海。

 遠くまで海が見渡せ、空と海の水平線の狭間で、太陽の光がきらきらと輝いている。


 小高い山の上とあって、先ほどバスの中から見た景色より、上から見下ろすような形で、美しい海がどこまでも広がっていた。


「苦労してここまで登ってきた甲斐があっただろ」

「わぁすごい……!」


 デッキの手すりのところまで来ると、涼太郎は目を輝かせながら、歓声を上げる。


 正面から吹いてくる潮風が気持ちいい。

 その風が、境内の青々しい木々の葉をさわさわと揺らす。空の高いところで、トビだろうか、ぴーひょろろと鳴きながら鳥が一羽飛んでいる。


「これが、試練を乗り越えて来たからこそ、見える景色だ」


 涼太郎の隣で晶矢が清々しい表情をして言う。

 あの階段を登らなくとも、境内の裏から車などで来れるが、息を切らしながら苦労して階段を登る、というその達成感をもって見る景色は、ひと味もふた味も違うのかも知れない。


「確かに大変だったけど、こんなに綺麗な景色が見れるなら、登りたくなるね」


 涼太郎は空と海の青を交互に見つめたくて、日差しに手をかざした。


(晶矢くんは、たくさん綺麗な場所を知ってるんだな)


 いや、多分自分が知らないだけで、たくさんの美しい景色が、本当はこんなにもそこかしこに溢れているのだと思う。


 いかに自分が、今まで下を向いてばかりいたか。


 晶矢と出会ってから、まるで世界が一変したような心地がしていた。


 でも世界は何も変わっていない。

 変わったのは、自分だ。


 自分がちゃんと顔を上げて、周りを見れるようになったからだ。


 そして、それはこの人のお陰だ。


 自分が今まで見ようとしなかった景色を、晶矢が隣で教えてくれる。



(晶矢くんが居てくれるから……僕は)



 そこまで考えて、涼太郎はハッとして、思わず息を止める。


「……っ」


 また唐突に涙が溢れそうになってしまった。


(何で、また急に)


 涼太郎は訳が分からないまま、唇に手を当てて必死に胸のざわめきを落ち着かせる。


 今回は涙が溢れるすんでのところで止められたのでよかった。

 少し涙目になってしまった目を擦りながら、一つ深呼吸して、晶矢の方を振り返ると。


「⁈」


 晶矢と、ばちりと目があってびっくりした。


「えっ……」


(晶矢くん、なんで……)


 と涼太郎は言おうとしたが、声が出なかった。

 晶矢も目を潤ませていたからだ。


「……目にゴミが入った」


 そう言って晶矢は目を擦ると、展望デッキ横に設置してある自販機を指さして言った。


「喉乾いたから、なんか飲もうぜ」

「う、うん……」


(何だろう……僕、なんか今日変だ……)


 何気ないふとした瞬間に、何度も涙が出てきそうになってしまう。

 自分の感情の揺れに、涼太郎は釈然としないまま、晶矢の後に続いて自販機へと歩き出した。




 展望デッキの側のベンチでしばらく休んだあと、二人は神社の裏手へとやって来た。


 駐車場側の裏参道には、お土産やスイーツ、食事処やカフェなど、沢山のお店が立ち並んでいた。

 こちらの参道は緩やかな坂道になっており、人通りもかなり多い。


「あれ? こっちはこんなに賑わってたんだね」

「階段三百段はあるらしいからな。ほとんどの参拝客はこっちからくるだろ」

「えっ、こっちの道あるの知ってて、わざわざあの階段を……⁈」

「神社とか正面から行くのが筋ってもんだろ」


 晶矢のこういうところは、真面目というかなんというか、涼太郎は思わず苦笑いしてしまう。


「さっきは階段から来たけど、今度はこっちから下に降りようぜ」

「そうだね、お店とか見てみたい」


 晶矢の提案に涼太郎が頷くと、また晶矢に手を差し出された。


「……」


 参道をチラリと見ると、確かに参拝客がそれなりに多い。

 涼太郎は、絶対に迷子にならない、とは言い切れず、その手をおずおずと取った。

 二人は周囲を散策しながら、裏参道を歩いていくことにした。


 裏参道には、古くからある土産屋や菓子店などが立ち並ぶ。その中に最近できたのか、お洒落な外観の和風カフェや、オリジナルの小物や雑貨を取り扱っているお店などもあって、見ているだけで楽しかった。


 歩いている途中、店先で美味しそうなお饅頭が売られている菓子店があった。人気のお店なのか、買う人の列ができている。


「いっぱい並んでるね。美味しそう」

「そうだな。ちょっと小腹空いたし、俺たちも並んでみるか」


 階段を登って疲れたせいか、甘いものが食べたくなった二人は、さっそく並んで買ってみる。


 参道脇の小道に逸れて、邪魔にならないところで食べようとして、晶矢がなぜか空をキョロキョロと見上げながら言った。


「あいつ、いないだろうな」

「? あいつって?」

「でかい鳥。狙ってくるから気をつけろよ」

(鳥? ああ、さっき飛んでたトビかな)


 晶矢が警戒した様子で饅頭を頬張るので、涼太郎も空を気にしながら食べる。そう言えばテレビのニュースなどで、海辺で食べ物をトビに狙われて取られる映像を見たことがあるが、涼太郎たちの所へは幸い飛んでくることはなかった。

 お饅頭は一口サイズで、一パックに六つ入っていた。涼太郎と晶矢は半分こして三つずつ食べた。


「出来立てで美味しかったね」

「そこまで甘くないから何個でもいけそうだな」


 蒸し立てのほかほかで、ふんわりとした酒蒸しの白い生地に、甘さ控えめで少し塩気の効いたあんこが入っていて、疲れた体に染み渡る美味しさだった。



 陽が少し傾いてきた頃、ようやく先ほど降りたバス停に戻ってきた二人は、バスの時刻表を確認する。


「夕陽見てから帰りたいんだけど、陽が落ちるとこまでは見れないかな」


 晶矢がスマホを取り出して時間を確認しながら言う。


 時刻は午後四時過ぎだ。

 今の季節、日の入りは六時半頃で、沈むまでいると、門限の八時に間に合わなくなってしまう。


「とりあえず海、近くに見に行ってみるか」

「うん」


 松林の間の細い道を抜けて、二人は海を目指すことにした。


 松林の中は薄暗く、少し先を先導する晶矢の背中を見て歩きながら、涼太郎は何だか寂しい気持ちになっていた。


(こんな気持ちになるの、初めてだな)


–––帰りたくない。


 今日一日楽しくて、もうすぐ終わってしまうのが寂しいと思ってしまう。



 松林を抜けると、いきなり視界いっぱいに海が広がった。


「……すごい……」


 涼太郎は思わず感嘆が漏れる。

 バスから見た海、展望デッキから見た海、どれも綺麗だったが、近くで見る海はいっそう美しく、迫力があった。


 弧を描くように続く白い砂浜には、ところどころ岩場があり、そこへ波が打ち付け白く飛沫を上げている。遊泳には向かない場所なのだろう、泳いでいる人はおらず、波打ち際を散策している人や、砂浜に座って海を眺めながら語り合う人々の姿が見える。


 ちょうど正面に夕陽が沈むようで、夕焼けスポットとして人気のようだ。


「波打ち際、行ってみようぜ」


 涼太郎は、そう言う晶矢の後を追う。


 波打ち際まで来ると、寄せては返す波の音が、よく聞こえる。心地よい音色が、耳元で囁くようだった。


 波際にギリギリまで近づいて、足元に波が来て濡れそうになって慌てている晶矢の姿に、涼太郎は思わず笑みが溢れる。


「濡れちゃうよ」

「濡れるか濡れないかの瀬戸際を見極められるか、試してるんだよ」

「ははっ、何それ」


 そう言ったそばから、晶矢の足元に波が来て、スニーカーの先を濡らしてしまった。晶矢が悔しがっているのを見て、また笑ってしまう。


(……今日楽しかったな)


 今日という一日をつい振り返ってしまうのは、夕暮れ時のこの切ない雰囲気のせいなのか。

 夕陽はまだしばらく沈みそうもないが、少しだけ黄昏ていく空は、藍から黄金色の綺麗なグラデーションに彩られていた。


「俺さ。前ここに一人で来たんだ」

「えっ?」


 砂浜に二人で座ったところで、晶矢が言った。


「この間、話しただろ。一年の時親と喧嘩したって」


 涼太郎は、先日晶矢の部屋で聞いた、軽音部への入部を反対された時の話を思い出す。


「俺、その時、実は家出したんだ。何も考えないで飛び出して」


(家出? 晶矢くんが?)


 涼太郎は、思いがけない晶矢の話に驚いて耳を傾ける。


「今日、水族館を出てから回ってきたコースは、その時の俺の家出コース」


 晶矢が海を眺めながら、苦笑いして言う。


「ここで一人で、こうやって夕焼けの海見てた」

「一人で、ここに……?」


 寂しげな笑顔を浮かべる晶矢の横顔を、涼太郎は思わずじっと見つめる。


「誰も何も知らない場所に行きたくて、たどり着いた場所がここだった。あの時もこんな風に、綺麗な空と海だったな」


 晶矢は、一年とちょっと前の、春のことを思い出しながら、遠い目をした。

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