第13話 雨あがりの木曜日⑧(海へのいざない)

「公園のところまで送るから」


 二人は晶矢の自宅を出て、一緒に歩き出した。


 蒸し暑く湿った空気がまとわり付いてくる。

 しかし空は、朝のどんよりした空模様とは打って変わって、すっかり晴れていた。

 藍色の空に飛行機雲が一筋走っていくのが見える。


 この辺りの道に不慣れな涼太郎を、公園のところまで送り届ける、というのは口実で、晶矢はもう少し、涼太郎と話したいと思っていた。


「元々会いに行こうと思ってたんだけど、土曜空いてる?」


 晶矢が隣を歩く涼太郎に尋ねる。


「うん」

「海行こうぜ」

「えっ?」


 涼太郎は驚いて思わず声を上げた。


「ぼ、僕、水着学校のしか持ってないよ」

「何言ってんだ、泳がないよ」

「そ、そうなの?」

「海は、眺めるものだろ」

「眺めるもの? 海水浴とかは?」

「少なくとも俺にとっては、海は眺めるものだな」

「え、なんで?」

「俺にはその才能はなかった」

「どういう事?」

「それ以上は聞くな」

「?」


 よくよく聞いてみれば、晶矢はあまり泳ぎが得意ではない、ということらしい。

 あまりと言うか、ほぼカナヅチというレベルで。

 涼太郎は、晶矢の意外な一面を知って、つい笑ってしまった。


「ふ……ふふっ」

「おい、笑いすぎ」


 晶矢が仏頂面をして言う。


「ふふっごめん」

「まあでも、海を眺めるのは好きだな。海を見れば、心落ち着くかなって思ってさ」


 最近思い悩み過ぎているという自覚が、晶矢にはあった。


 波の音を聞きながら、潮の香りに包まれて、青い海を臨む。広い海を見ていると、自分の悩みなどちっぽけに思えてくるような気がする。


(そういえば、ここ何年も海なんて行ってないな)


 涼太郎は、海を見た最近の記憶を思い起こしてみる。

 何かの用事で隣の市に行った時に、電車の車窓からチラッと海が見えた、という程度の記憶しかない。


(海は電車で隣の市まで出ればすぐだけど、一緒に行く人もいなかったし……って)


 涼太郎はそこまで考えて、思い出した。


「あ!」


「えっ、何?」


 涼太郎が突然声を上げて立ち止まったので、晶矢はびくりと驚く。


「今日水族館のチケット、もらった。春人先輩に……」

「え? お前、春人さんに会ったの?」

「うん。午前中偶然会って、晶矢くんと行ってこいって……」


 そう言って、涼太郎はポケットからチケットを取り出して、晶矢に見せる。


(そうだ。僕、晶矢くんを誘いに来たんだった)


 涼太郎は晶矢に会って、その後自宅に招待されたものだから、当初の目的をすっかり忘れてしまっていた。


「この水族館って、海の近くだよね?」

「確かそうだったと思う」


 晶矢は小学生の頃に、この水族館に遠足で行った記憶があった。海のそばに作られた水族館だったはずだ。


「それなら海と水族館、両方行けるね」

「そうだな。じゃあ土曜日、決まりな」


 晶矢がそう言うと、涼太郎は「うん」とはにかむように笑って頷いた。


「ところで、春人さん、なんか言ってた?」


 晶矢が涼太郎の顔を窺うように聞く。

 聞かれて涼太郎は、「うーん」と春人が言っていたことを思い出す。


「晶矢くんに、もっと周りを頼れって、言ってたよ」


 涼太郎が春人の言葉を素直に伝えると、晶矢は思わず息を呑んだ。


(俺が一人で悩み過ぎてること、見透かされてたのか)


「あと、晶矢くんを、押してみろって言ってた」


「は?」


「押しに弱いだろうからって……でも具体的にどうすればいいのか、どういうことなのか、意味は分からなかったけど……」


 涼太郎がそう呟く横で、晶矢はいよいよ背筋が凍った。


「あの人、怖すぎるだろ……!」

「?」


 晶矢の叫びに、涼太郎はきょとんとしている。


(俺が押しに弱いって……そんなことまで……)


 晶矢は急に恥ずかしくなって、顔に熱が集まるのを感じて、思わず片手で顔を覆う。


 涼太郎が"自分から会いに来てくれた"というだけで、晶矢は、嬉しくて舞い上がってしまった。

 そんなところまで、春人に見透かされているのだとしたら怖すぎる。あの人はどこまで人の心を見透かしているのか。


 ただ、そのおかげで、一人で抱えてたものを吐き出せた。

 涼太郎とこれから、どうしていきたいかも、少しずつ見えて来たような気がする。


「やっぱり、春人さんには敵わないな……」


 春人が、二人の背中を押してくれた。

 だが感謝する一方で。


(あの人だけは絶対敵に回したくない)


 晶矢は改めて、春人に尊敬と畏怖の念を抱いたのだった。




 夕方、自室でヘッドホンをつけてベースを弾いていた春人は、手を止めて、スマホを手に取った。スマホの通知の振動に気づいたからだ。


(おや、晶矢くんからか)


 画面に名前が表示されている。メッセージアプリを開いて通知を開くと、春人は思わず笑みが漏れた。


「ふふっ、うまくいったみたいだね」


 晶矢から届いたメッセージには、お礼の文章と、かわいいスタンプと、一枚の画像が添付されていた。


『チケットありがとうございます。

 早速土曜日に行ってきます!

 夏祭りまでに二人で結論出します(力こぶの絵文字)』


 スタンプは、春人の愛犬コジローによく似た柴犬が、ありがとうの気持ちを表しているかわいいイラストだ。


 そして、添付された画像は写真だった。自撮りで、晶矢と涼太郎が二人で写っている。晶矢はピースサインをしているが、涼太郎は恥ずかしがったのか、画面から少し見切れていて、それがまた微笑ましかった。


「あとは、君たちの勇気次第、かな」


 あの二人がそれぞれもう一歩踏み出せるかどうか。


(もっと仲良くなって、もっとお互いを知ってごらん)


 そうすれば自ずと、どんどん生まれてくるだろう。

『二人の音楽』が。


 今はまだ始まったばかりで、荒削りな二人だ。だからこそ、近づけば近づくほど研磨され輝き始める。


 春人はスマホを操作して、晶矢に返事を送る。


『いってらっしゃい。楽しんできてね』


 そして春人も、コジローによく似た柴犬が手を振っているイラストのスタンプをつける。


「もっと、君たちの音楽を聴かせて」


 春人はそう呟いて、静かに一人微笑んだ。

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