第19話 夏休み二日目②(お兄さんとウメハル)
どうやらこのお兄さんは、猫を捕まえるのに木に登ったはいいものの、怖くて降りられなくなったようだ。
涼太郎は、お兄さんが木から降りられるように、あらゆる体勢で手助けを試みた。だがお兄さんがやたら怖がって手こずってしまい、やっと降りられたときには十分くらい経っていた。
その間に二人とも汗だくになってしまった。
「ありがとう! あなたが来てくれなかったら、ウメハルと一緒に木の上で干からびるところだった……!」
(ウメハル……? どこかで聞いたことあるような気がするけど、なんだっけな)
猫ちゃんの名前に、何か聞き覚えがあるような気がしたが、お兄さんが泣きそうな顔で、涼太郎の手を取ってぶんぶん振りながら礼を言うので、勢いに気おされてしまった。
「ウメハルが病院から飛び出して行った時は、本当に背筋が凍ったわ」
聞けば飼い猫のウメハルを連れて、この団地のすぐ近くの動物病院へ来ていたところ、帰る時にうっかり出入り口から逃げてしまったらしい。
お兄さんは高所恐怖症なのに、木に登った猫を助けるのに必死だったようだ。
「ウメハル、ごめんね! 怖い思いをさせて……!」
お兄さんは、愛猫をキャリーバッグごと抱きしめて泣いている。涼太郎はそこで、はたと既視感を覚えた。
(あれ? 昨日も似たようなことがあったな)
昨日の朝の柴犬の少年が、一瞬脳裏に浮かぶ。
「私高いところに登ると、怖くて声も出せなくなるから……詰んだと思ったわ。ウメハルの鳴き声に、気づいてくれて有難う。こんなに蝉が鳴いている中で、小さなウメハルの声を聴き分けてくれたんだから。あなた耳がいいのね」
そう言われて「そ、そんなことは…」と首を振る涼太郎に、
「そんなことあるわよ、ありがとう」
お兄さんはお礼を言いながら、にっこりと笑った。
改めて地上に降り立ったお兄さんを見れば、涼太郎より十センチ程背が高く、少し見上げるくらい大きい。
しかし厳つい見た目に反して、にこにこ笑うお兄さんはどことなく言動が柔らかい。と言うかお兄さんと言うよりも、お姉さんといった方がいいような気がする。
お兄さんの額からは汗が随分と滴っていた。どれくらい木の上にいたんだろうか。
(あっそうだ! アイス……)
涼太郎はお兄さんを助ける時に、木の根元に置いたコンビニの袋を思い出す。
もう溶けてしまったかもしれない。
(この人熱中症になったりしてないかな)
そう思って涼太郎は袋から自分のアイスを取り出すと、半分に割って片方を恐る恐るお兄さんに渡した。
「あ、あの……ちょっと、溶けてますけど、暑いので、良かったら、どうぞ……」
「えっ⁉︎ あなた神なの⁉︎」
(あっやばい、じいちゃんのアイスが溶けてる!)
目を見開いて感激しているお兄さんの横で、袋の中を確認した涼太郎は、慌てて「じ、じゃあ」と言って立ち去ろうと背を向けた。
するとお兄さんも慌てて涼太郎を引き止めようと声をかける。
「ちょ、待って! お礼させて」
「い、いや、大したことしてないから……そ、それより僕、早く帰らないと……」
涼太郎はお兄さんの申し出を固辞して、「ね、猫ちゃん、お大事に」と言って、今度こそ走り去ってしまった。
「今度また会えたら、是非お礼させて!」
涼太郎の背中に、お兄さんは叫んだが、届いたかどうかは分からない。
愛猫のウメハルがキャリーバッグの中で、寂しげににゃーと鳴いたので、お兄さんは同意するように語りかけた。
「そうね、また会えるといいわね……」
でも、あの子の声をどこかで聴いた気がする。
だからすぐにまた会えるだろう。
何故かそんな予感がした。
「ただいまぁ」
涼太郎が汗だくで家に帰り着くと、重治郎はリビングでテレビを見ていた。
「おお、おかえり。どうした、汗びっしょりで」
涼太郎の姿を見て、重治郎が目を丸くして言った。
「ごめん、外暑くてアイスちょっと溶けちゃった……」
涼太郎はコンビニの袋から、あずきバーを取り出す。買った時はカチカチに固かったアイスが、随分柔らかくなってしまっていた。
「ああ、ちょっとどころじゃ……ないかも」
「うん、ちょうど食べ頃になっとるな」
しょんぼりしている涼太郎に、重治郎がニヤリとして言うと、ガラスの器を台所の棚から取り出し、袋からアイスを器へ出した。水っぽくシャーベットのようになっている。
「年寄りにはこれぐらいが食べやすい」
重治郎がそう言うと、涼太郎はホッとした表情になった。
そしてリビングの扇風機の前に座ると、スイッチを最大にして、半分になった自分のアイスを食べながら涼み始める。
「はー天国……」
もちろん涼太郎のアイスも随分溶けているが、冷たいチョコレートドリンクみたいで十分美味しくて、汗も引いていくのだった。
そんな涼太郎を尻目に、しゃりしゃりと器の中のアイスを崩して食べながら、重治郎は思う。
(涼太郎は本当に優しい子に育ったな)
先程ベランダで洗濯物を干していた時に、涼太郎が団地の木の下で何やら人助けをしているところを、重治郎は偶然見かけていたのだ。
(どれだけ自分が傷ついても、人のことを
どうか、この先の涼太郎の未来が、寂しくないように、幸せであるように、そう祈るばかりだった。
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