第10話 夏休み初日②(少年とコジロー)

 六時を少し過ぎたばかりだと言うのに、もう暑くなってきた。


 涼太郎は首にかけたタオルで、額に浮かんできた汗を拭いながら、ムサシがマーキングした部分にペットボトルの水をかけた。


 その時だった。「ワンワン!」と激しく吠える犬の鳴き声がしたかと思うと、小さな茶色い影が、自分たちの横を勢いよく通り過ぎていった。


「あっコジロー! 待って!」


 直後誰かの叫ぶ声が聞こえて振り返ると、中学生くらいの背格好の少年が、道路に転んで動けないでいる。

 涼太郎はハッとして、茶色い影が走り去った方角を見た。柴犬らしき犬が、リードを引きずりながら河川敷を走っていくのが見える。

 その先は、交通量の多い幹線道路だ。


(あ、そっちはだめ……!)


 涼太郎は咄嗟に、柴犬に向かって指笛を鳴らした。そして息を大きく吸い込むと、大きな声で叫んだ。


『コジロー!! おいで!』


 どこまでも届くような芯のある声だった。

 涼太郎は、心の底から叫ぶように柴犬を呼ぶ。


『コジロー! こっちだよ!』


 涼太郎の声が届いたのか、柴犬が幹線道路に出る手前でぴたりと止まってこちらを振り返った。

 涼太郎はしゃがんで、両手を広げる。


『おいで! コジロー! こっち!』


 柴犬が首を傾げてこちらを見ている。

 涼太郎がもう一度名前を呼ぶと、こちらに向かって走り始めた。


『よーしよし、おいで!』


 戻ってくる間も涼太郎は声をかけ続ける。

 やがて柴犬が、涼太郎の懐に飛び掛かるように勢いよく突っ込んできた。


「いい子だね! よしよし、いい子いい子」


 涼太郎はじゃれついてくる柴犬を、落ち着かせるように、笑顔で撫で回した。


「コジロー! 良かった!」


 さっき転んで動けなかった少年が、泣きそうな顔で涼太郎と柴犬の元へよろけながらかけ寄ってくる。


「ごめんね、コジロー! 怖い思いをさせて……!」


 少年はそう謝りながら柴犬を抱き寄せた。柴犬は嬉しそうに少年の頬をペロペロと舐める。

 その姿を見て、涼太郎は心底安堵して気が抜けたように言った。


「止まってくれて良かったぁ……」



 少年は転んだ時に足を挫いてしまったようで、涼太郎は家まで送ってあげることにした。

 自分がコミュ障だからと言って、さすがに怪我した人を放ってはおけない。

 少年の家はこの河川敷を降りてすぐの所にあるらしい。


 ポメラニアンのムサシと柴犬のコジローは、二人の周りでくるくる周りながら、お互いの匂いを嗅ぎ合っていたが、しばらくすると仲間と認めたのか相手の顔を舐めたりじゃれたりして仲良くなっていた。


「ごめんね、君もワンちゃんの散歩の途中なのに……」


 少年が申し訳なさそうに言う。


「き、気にしないで……大丈夫、だから」


 そう言って少年を支えるために涼太郎がその手を取ったとき、ふと少年の手の違和感に気づいた。


(あれ、この子指先すごく固いなあ……)


 もしかして習い事とか何かやってるのかな、と思いつつ、涼太郎は少年に肩を貸しながら、土手をゆっくり降りる。


 ムサシとコジローは、涼太郎にリードを引かれて、ちゃんと仲良く並んでついてくる。


「近くを通った大型犬に急に吠えられて、コジローが驚いて走り出してしまったんだ。その時に、俺が転んでリードを離してしまって……」


 少年が「本当に不甲斐ない」と悔やむように俯く。


「君が止めてくれなかったらどうなっていたか。本当に感謝してもしきれない。ありがとう」


「う、ううん……」


 随分大人びた口調の少年だなぁと思いながら、涼太郎は小さく首を振った。


「いつも夕方か夜に散歩しているんだけど、今日から夏休みでね。たまには早起きして、清々しい空気の中でコジローと散歩しようと思って来たんだ。そしたらこんなことになってしまって……」


 少年が困ったように笑う。


「でも、君とここで会えた。早起きは三文の徳というけれど、君に会えたのが徳かな」


 やっぱり妙に大人びた口調だなぁ、と涼太郎は思う。すると、少年が涼太郎の方に視線だけ向けて言った。


「君はとてもいい声をしているね」

「えっ?」

「声量もあるし、歌とか歌ったりする?」

「……なっ⁉︎」


 少年にそう言われて、涼太郎は驚いて思わず「なんでそれを」と言おうとして、すんでのところで押し止まる。


 少年が首を傾げてこちらを見るので、涼太郎は慌てて「い、いや、別に……」と誤魔化した。



 土手を降りると、大きな家の立ち並ぶ、いわゆる高級住宅街に出た。

 その中でも一際大きな家の前まで来ると、少年は「ここで大丈夫だよ」と言って立ち止まった。


「わざわざ送ってくれてありがとう。何かお礼がしたいんだけど……」


 そう言う少年に、涼太郎は慌てて首を振り遠慮する。


「い、いや、大したことしてないから……そ、それより僕、早く帰らないと……」


 原田さんちのムサシの散歩の途中だ。ここまで大人しく着いて来てくれたムサシにも悪いし、いつもより帰りが遅くなってしまうと、原田さんに心配をかけてしまう。


 ムサシとコジローは、鼻をくっつけて名残惜しそうにしている。涼太郎がコジローを「よしよし」と撫でてやると、コジローはクゥンと寂しそうに鳴いた。


「じ、じゃあ……お大事に」


 涼太郎がそう言って、少年にぺこりと頭を下げて立ち去ろうとした時。

 少年がおもむろに言った。


「君の声」


「えっ?」


「本当にいい声をしている。気持ちがちゃんと込められているからこそ、コジローにも届いたんだよ」


 涼太郎は少年に言われたことの意味がよく分からず、首を傾げる。


「今度もしまた会えたら、是非お礼させて」


 そうして、少年はにっこりと笑って、またね、と手を振った。



 土手の向こうへ去っていく涼太郎とムサシを見送りながら、少年は呟いた。


「あの子の声だったのか」


 聴いた事がある声だと思った。

 声だけは知っていたが、やっと会えた。


「また会えたら、その時は聴かせてもらおうかな。君の歌声」


 すぐにまた会えるだろう。

 何故かそんな予感がする。


 クゥンと寂しそうに鳴いたコジローを撫でながら、少年は安心させるように言った。


「ふふっ、大丈夫だよ、コジロー。多分また会えるから。俺の勘は、よく当たるんだよ」


 その言葉にコジローは、喜ぶように尻尾を振ったのだった。

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