第136話 西へ向かう男爵
翌日。
この時代の城はガラスがなく窓が小さく、とにもかくにも換気が悪いので、貴族といえど窓際で良く深呼吸をしていた。息が詰まるのである。バースクル伯爵も、その口であった。最近は蠟燭を何百もとりつけた円燭台が出す煤のせいか、咳まで出てしまう。引退が頭をよぎって朝なのに黄昏ていたところで、中庭を歩く部下をみつけた。キーオベンチ男爵である。
バースクル伯爵はキーオベンチ男爵が微笑みながら登城してくるのを窓際でみて少し驚いた。上がってきた男爵の顔を見て、思わず声をかけている。
「おお男爵、機嫌がよさそうで何よりだ。実は心配していたのだ」
「婚姻の話、お耳に届いていましたか」
「うむ。陛下も殊の外、腹を立てておられる。ルース王国め、何様のつもりかと」
「陛下のお耳に入っているとなると、ルースとニクニッスで戦争が起きるかもしれませんね」
「うむ」
バースクル伯爵は苦い顔をした。もとはと言えば、自分たちがしかけた魔力増大実験が摘発されて起きた緊張、ニクニッス側からすれば外交的失点である。ルース王国が怒るのは致し方ないところなのだが、あえてニクニッス王はルース王国を怒って見せた。部下をかばったのである。
「陛下は優しくいらっしゃる」
キーオベンチ男爵は頭を下げた。
「その通りです。私のような人殺しの異常者をも、気遣ってくださる。なんという聖王の器。キーオベンチ、ますます忠節を誓いたくなりました」
その思いはバースクル伯爵も同じである。
「そうだな。しかし、いつまでも陛下の温情にすがるわけにもいかぬ。このままでは我々諜報部門の立つ瀬がない。外交部門など、我々を見て必ず苦笑する始末だ」
「それは見返さなければなりませんね……それに、陛下の御心は別にしてもエルフ国家同士の戦争というのも気が引けます」
キーオベンチ男爵は朝方まで下男下女を殺して回っておきながら、真顔でそんなことを言った。表情は心から国とエルフという種族を憂いているように見える。見えるというよりも、実際に憂いて、戦争よりは平和を希求していたのであろう。この落差が、キーオベンチという物静かな人物の真骨頂である。仕事とそれ以外、知性と狂気、理性と本能を完全に分離して時間で行き来しているのである。その様は確かに異常性を感じずにはいられない。彼は朝方、テティスの体の中心を杭刺しにして地面に転がしたらどれだけ面白いかと叫んでいた。
少しの間のあと、キーオベンチ男爵は微笑んだ。
「戦争を回避せねばなりません。私が直接ルース王国へ行って、事態の打開を図りたいと思います。婚姻破棄の話を直接当該の貴族が話に行くのですから、ルース王国も表立っては嫌と言えますまい」
「そうか。そうだな……戦争を回避するためには、そうせざるをえないか……」
ニクニッスの若き王は、戦争を最高の娯楽と考えているところはある。アルバとの戦いが終わって、日々を退屈そうにしていたのも事実である。しかし同じエルフ国家同士、中でもルース王国はエルフ国家の祖とも言える存在である。下手に王が娯楽を始めると、ニクニッス以外全部の国家が敵に回りかねない。
それだけは阻止せねばならない。バースクル伯爵はそう考えて頷いた。なんとかこの難局を凌いで、首と胴が繋がっているうちに引退したい。キーオベンチ男爵がルース王国に行って文句を言ってルース王国側からなんらかの譲歩を引き出す。それをもって手打ちとし、その間に今度はもっと分かりにくい方法で山都への浸透と侵入を図るのである。
一方キーオベンチは、テティスのテレパスの範囲にさえ入れれば、それで壊す自信があった。話し合いと称して一回、円舞の時に一回、別れの挨拶で一回。表情がどう変わっていくか、見るのも楽しみであった。妻にできぬというのなら、すぐにぐちゃぐちゃにしてしまえばよい。一度で使いもにならなくなれば、まあそれはそれで、良かろう。体調不良を理由に顔を出せないとか言い出せばしめたもの、不実をなじるなり、体調不良の令嬢をあてがおうとしたエンラン伯爵家を糾弾するなり、好きなようにできる。
そして二人は同時にホーナー元侯爵を見た。例の叫びが来ると思ったのである。
何もなかった。
おいたわしいと言い損ねてキーオベンチが微妙な顔をしていると、バースクル伯爵は慰めるように、良いことではないかと言った。
もしかしたら復調の兆しがあるのかもしれない。
「わしも連れていけ」
シレンツィオだ、以外の言葉をホーナー元侯爵が喋りだしたので、二人は少し慌てた。もともと二人はホーナー元侯爵の部下である。言葉には長年、諜報部門を率いてきた者の貫禄があった。
「聞こえなかったか、わしも連れていけ」
「ホーナー様……」
ホーナー元侯爵の瞳には力がある。
「シレンツィオと戦うのならば、わしに秘策がある」
キーオベンチ男爵がバースクル伯爵の顔を見ると、伯爵は苦笑した。
「回復によいかもしれん。男爵が良ければ連れて行ってくれんか」
「分かりました。お連れいたします」
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