第135話 懐かしい味

「腹が減ったのか」

 ムデンがそう声をかけるとマクアディは驚いた様子を見せて、次いで恥ずかしそうな顔をした。

「懐かしい匂いにつられてただけ」

 この時のムデンの表情はどんなものであっただろうか。

「そうか、安くしておくぞ」

「ううん。お金ないんだ」

「そうか」

 ムデンは厚切りのハムを串で焼いて渡した。

「出世払いだ」

「出世するかは分からないよ。俺、貧乏騎士の子なんだし」

「先のことなど誰が分かるものか。だから人は善をなすのだ。明日が分かって施すのならそれはもう善ではない。ただの投資だ」

「善のことそう言う人を初めて見たよ」

「そうか?」

「善って、弱々しいんだね」

「重大な秘密を教えよう」

 ムデンはその瞬間、アルバの宝剣のような顔をした。

「弱いほうに味方をしたほうが気分がいい」

 その言葉を、マクアディは長く長く覚えることになる。

 マクアディは苦笑してハムを受け取ると頬張って、ちょっと泣いた。

「嫌なことがあったのか」

「ううん。昔の友達を、ちょっと思い出しただけ」

「そうか」

 マクアディは丁寧にお礼を言うと、明日がどうかは分からないけど、ハムの代金を払えるように出世してみるよと言って去って行こうとした。ムデンはそれを呼び止めた。

「待て」

「何か?」

「歩く時の癖が良くない。武術の訓練をちゃんとしているか?」

「ううん。動くとお金がかかるから、なるべく動かないようにしているんだ」

「そうか。ベルニ」

「はい」

 屋台の裏で仕事を手伝っていたゲルダが顔を出した。

「修行の一環だ、こいつを鍛えてやれ」

「いいんですか」

「教えることは自分への勉強になる。出し惜しみせずに教えてやれ」

「はい」

 そしてムデンはマクアディに微笑んだ。

「腹が減った分の補填はしてやる。出世をするんだろう? 努力してみろ」

「なんで……?」

 ゲルダはマクアディの腕を引っ張った。

「ムデンさんが決めたことに異論を挟むな。行くぞ」

 マクアディは連れていかれた。ムデンの肩にボーラが腰かけた。やれやれという顔をしている。

”ソンフランとか呼んであげたらよかったんじゃないですか? 学校に入る手伝いをしてくれたかも”

”俺は友人を利用したりはしない”

 ムデンは堂々と言った。料理用の前掛けをしてようと、その姿はひどく立派であった。

 ボーラは長くため息をつくと、ムデンの耳に持たれかかった。

「私も先がさっぱり見えなくなってますよ。分かってます?」

「楽しくていいだろう」

「分かってませんね」


 ところでゲルダの名前の変更のあたりで真実の愛とか盛り上がっている一部の女流作家などはこのマクアディとのやり取りだけを膨らませて大変な長編を書いてしまうことがあるが、この場面はさほど重要というわけでもない。むしろ、シリヴリンの嘆きに応じて税金を支払う申し出をしたことにこそ重要性がある。マクアディの先輩にあたるシリヴリンや他の騎士たちが任務に精勤した結果、ルース王国は騎士という存在そのものを見直して、待遇改善と陸軍への大統合をおこなったからである。この事件がなければ、後の英雄マクアディの姿は、随分と史実とかけ離れていたに違いない。

 先にあげた作家の一部によっては時系列を変えてこの出会いの後でムデンが税を申し出ることになっている。それどころかシリヴリンの存在がすっと消えている時もある。そこまでやるなら完全な自作で良いと思うのであるが……。


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 一方その頃。


 ニクニッス。キーオベンチ男爵は珍しく激高していた。

「どういうことだ、婚姻をやめたいなど!!」

 部下は恐縮したが、報告の内容が変わるわけもない。男爵は腹を立てながらも、落ち着こうとしていた。

「すまないことをした。もう一度報告を頼む」

「は、はい」

 部下は震え声で報告を最初から始めた。

「エンラン伯爵家から、この度の婚姻の話、なかったことにしたいと」

「一体いくらつぎ込んだと思っているんだ。貴重な<以心伝心テレパス>に」

 以心伝心という権能は広く人類に忌避されたものである。この点、人間だろうとエルフであろうとドワーフであっても変わりない。

 心を覗かれる、というのにはそれだけの根源的な恐怖がある。

 一方でその能力を便利に使うものたちもいた。ニクニッスの諜報部門がその先駆けである。拷問などよりよほど効率よく情報を習得できるからであった。その気になれば建物の外からでもある程度の情報を得られる力なのである。

 キーオベンチは過去一七名の妻を娶ったが、その全てが以心伝心の権能を持っていた。いずれも心を壊して最後には自害または自害を装って処分されている。任務で良心が傷んだ、という面もあるが、その実、キーオベンチの心を覗いてしまったからだと同時代から言われている。

 テレパスが無意識に心を読んで体を強張らせ、恐怖に慄くのがキーオベンチにとっては癒しであった。部下を処分したり敵を処分したりはするが、どれも一度しか壊せないのに、テレパスは比較的何度も壊せるのである。

 仕事で役に立つ上に、仕事のうっ憤を晴らせる。今度は特に幼子であるから、キーオベンチは特に楽しみにしていた。毎日朝食の時にゆがんだ笑顔を見せる想像をするだけで、猛った。

 それがなかったことしたいという。

「男爵とはいえ、ニクニッスの貴族だぞ?」

「それが、そのニクニッス貴族というのが問題のようで……」

 頭の中でホーナー元侯爵がシレンツィオのせいだと叫んでいる。発作的においたわしいとキーオベンチ男爵はつぶやいた後、高い壺を壁に投げつけて割った。

「人間の捕虜を連れてきなさい。一〇名だ」

「もう尽きております」

「では君が私の癒しになれ」

 悲鳴が屋敷に鳴り響いた。キーオベンチ家で働く下男下女は、耳を塞いで明日は我が身かと震えた。

 実際には、明日どころではなかった。その日のうちにキーオベンチは屋敷全部の人間を拷問して殺して回り、不愉快が過ぎるぞと叫んだ。これが本当にシレンツィオのしわざなら、アルバまで攻め寄せるところだ。

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