第118話 金糸雀の島

 それから数日。遠く、ニクニッス。 

 ニクニッスの情報部門は緊張感がある。同国の宮廷ほどではないが、失敗に厳しいのである。もっとも王の御前であれば、些細なことでもすぐに心臓が止まったから、情報部門はまだしも穏健派であると言えた。通常情報部門は他の部門より厳しいのが常であったから、これは他国であれば考えられないような話であった。一人前に育てるのに長い時間が掛かる事情もあったが、その穏健さを保っていた理由はホーナー元侯爵の人柄によるところが大きかった。情報を駆使していいように他国を混乱させる元侯爵も、部下には優しかったのである。失敗した部下が殺されぬように、あの手、この手で王をなだめてきたのだった。部下たちはこのことをよく覚えていて、ホーナーが乱心して降格したあとも、元侯爵を丁重に扱った。キーオベンチ男爵などは、なぜあんな人を執務室に置いて置くのですかと尋ねられて、表情一つ変えずに、私が若いころに死ななかった理由だからだよと返したとされる。

 そのキーオベンチ男爵は、報告書を読みながら眉を潜めた。最近、ルース王国の動きが慌ただしい。

「シレンツィオだ! ヤツが出たのだ!」

 叫んだのは部屋の隅で茶をすすっていたホーナー元侯爵である。キーオベンチ男爵は悲しい顔でそれを眺めると、書類に目を戻してつぶやいた。

「おいたわしい」

 同時に、アルバの宝剣と戦わないでいい気安さに、安堵を覚えるのだった。なにせあの男、とんでもない所から姿を見せてはニクニッスの企みを邪魔して来るのである。予想ができないという意味では地震や嵐となんら変わらぬ。

 ままならぬ報告書を前にして、少しの間、意識が現実から離れる。そう、あれは金糸雀諸島の住民全部を奴隷化して兵士を作るための繁殖肉工場にしようとした時であった。

 初めての大仕事に、胸を高鳴らせて島に乗り込んでみたら、島全体が蛻の殻だったのである。意味が分からなすぎて思わず笑ってしまうような展開であった。先んじて制圧を命じていた軍の部隊は全滅しており、何がどうなってそうなったのか知るには、一月ばかりもかかった。最終的には戦わずして逃げ出し、様子を伺っていた味方兵士を見つけて吐かせたのである。すぐに吐いたが、その後は敵前逃亡の罪で意味もなく拷問を受けて苦しみぬいて死んだ。

 島民全部が消えた事件。

 シレンツィオ・アガタ。アルバの宝剣が出てきたのだ。金糸雀諸島の住民はエルフであり、宝剣とも激しく戦っていたはずだが、自分たちが殺される段になったら、よりにもよって敵のはずの劣等人、大災厄である宝剣を頼ったらしかった。

 敵を頼るとは……と思う一方で、あの頃は正気であったホーナー元侯爵は言われたものだ。いよいよになれば敵にも頼られるのがあの宝剣だと。その時、狂っていると思ったのだった。元侯爵ではなく、宝剣が。

 どんな神経で昨日までの敵を助けてのうのうとしていられる。もしかしてアルバというか劣等人は頭の中までバカなのだろうか。ニクニッスならば百回殺されても当然の話だった。

 男爵はため息をついた。宝剣という、どうしようもない理不尽にあい処刑間違いなしだった私を助けたのは元侯爵であった。あの時のことを思えば、今部屋の隅でたまに叫ばれるくらい、どうということもない。

「心を切り替えよう」

 報告書を持ってきた部下ではなく、自分に言い聞かせて、キーオベンチ男爵はため息をついた。部下をみやる。

「それで、ダウギリスは?」

「まだ生かしてはおります」

「それでいい。使い道はある。それにしても天幕をどうしても抜けられず、とは」

「本気でそう報告しております」

「忠誠心を高めるために、薬を使ったか?」

「いいえ。あれば金が薬のようなものです。金さえ渡せばどうにでもなります」

「金欲しさにこんな報告をするほどバカでもないはずだが……」

 シレンツィオだ、と叫ぶ声を無視して、キーオベンチ男爵は細長く切りそろえた自らの顎髭を撫でた。

「バースクル伯爵からは濡れ仕事の許可が出ている。頭を潰せばすぐに計画は元通りになるだろう。肉爆弾を使いなさい」

「はっ」

「私が結婚式でルース王国へ向かう前に決着をつけなければな」

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