第113話 ガットの事情

 それでブルは、去っていった。ムデンはそれ以上ブルに対して何も言わなかった。

 ブルの背を眺めながら、身軽になったムデンは心を動かした。

”テレパスはどうだった? 使ったのだろう?”

 ボーラが肩の上に乗って頷く。

”はい。何度も呼びかけました。駄目だったみたいですけど”

”お前を売っていた親父も声は聞こえてなかったようだしな”

”あの人、私の姿は見えてたんですけどね”

”げに恐ろしいのは人の思い込み、か”

”エルフも獣人も人間も罹る病気みたいなものなんでしょうね”

”違いない。なんとか治してやりたいが”

”ちょっぴり寂しくはありますけど、無理に治さないでもいいと思いますよ。ムデンさん”

 ボーラが気遣うように言うと、ムデンはボーラを横目で見やった。

”泣きそうな顔をしている”

”完璧な演技だったつもりですが”

”そうか”

 ムデンはそう返した後、さらに考えた。

”お前と同じように、友人をなくした子供時代のガットも泣いているかもしれん”

”それが思い出の中でも助けるんですね。ムデンさん”

”悲しそうな女に声を掛けるのはアルバ男の唯一無二の神聖な義務だ。それで死んでもまあまあ仕方ない”

”命がけっていうのは嬉しいですけどほんとに死んだら駄目です”

”努力はしよう”

 一方、今はブルと名乗るガットである。話を進めるにあたって、まずは彼女の事情を説明せねばならない。

 ガットは獣人の子で、彼女たち自身がアトテと呼ぶ三獣国の生まれである。三獣国はアリスリンド、トリンド、テレスリンドの三国からなり、古代の賢人の名を冠したと言われている。

 この三カ国は元来一つの国だったのだが、エルフ、というよりもニクニッスに占領された際に分割統治された、といういきさつがある。一つにまとまらないように分断工作する手法と一組になったニクニッス流の支配術である。

 ガットはこの三国の内、テレスリンドの生まれだったと推察されている。彼女の名は猫を意味するのだが、この猫の獣人の大多数がテレスリンドに居住していたからである。もっとも根拠は今記したものだけなので、おそらくはテレスリンド出身、という程度で実際どうだったかは分からない。

 獣人はその強靭な身体能力からエルフに雇われることも多く、ガットもその一人であったと伝えられている。言葉を選ばずに言うならば、ここで言う雇うとはエルフの婉曲表現で、その実は奴隷化魔法を使った奴隷だったと思われるが、彼女にとって幸いなことにルース王国ではエルフ年で何十年と前に奴隷を禁止しており、将来の貴族である幼年学校には奴隷持ち込みは冗談でも許されるようなものではなかった。

 それゆえ、ガットは解放奴隷だったと推定されている。実際彼女は長じてブルと名前を変えた後は冒険者として名を馳せるので、自由民であったのはこの面から見ても間違いない。移動の自由がなければ冒険者になれないからである。

 おそらくガットは自由と引き換えに……奴隷身分から解放されるかわりに……年限つきで読心(ルビ;テレパス)能力を持つテティスの側仕えになったのであろう。

 そういう関係と出会いであったが、ガットと主人であるテティスの仲は非常に良かった。使用人と主人というよりは、ある種友人とも言える関係だったと思われる。実際、ガットの衣服の繕いはテティスがやっており、テティスの食事の世話はガットがやって一緒の寝台で寝ていた。心細い幼子たちはそうやって身を寄せ合って生きていたのだろう。

 二人の関係が変わるのはエルフ年で二年後、人間や獣人の年月で言えば八年ほど後のことになる。この頃になるとガットはすっかり大きくなってしまい、成長が緩やかなテティスと身長差がひどく目立つようになっていた。

 ある日、テティスはガットを見上げたあと、すっかり大きくなりましたねと言った。それは別れの言葉であった。ガットは悲しそうに頭を振るったが、いつまでも一緒の寝台で寝るような関係ではいられなかった。ガットは一足先に大人になってしまったのである。

「大丈夫、あなたの抜け毛を集めてぬいぐるみを作るわ。それと一緒に眠るなら、さびしくはないから」

 テティスはそう言って笑った後、ガットの手を撫でた。昔のように頭を撫でるには、背が足りなかったのである。

「自由になることを許します。それと、時々でいいからおじさまを探してね」

 ガットが約束を守ったのは言うまでもない。彼女はその後、毎日のように山に入っている。

 その末の、手がかりである。ブルは両手で抱きしめるようにシレンツィオの外套を抱き、宿に走った。今となってはそのまま幼年学校に入ることができなかったのである。暗くなり、忍び込むのを待つしかなかった。

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