第112話 見えぬ妖精

 明確な殺意を出してガットが襲いかかった。あの速度で動いて置いて、まだ本気ではなかったようだった。

 ムデンは口元を緩めると外套の袖から短剣を次々出現させるとばらまいた。

「これぐらい!」

 そう言って短剣を乱雑に叩き落としたガットは、次の瞬間地面に転がされている。あっという間の早業であった。

 ムデンはばらまいた短剣を目くらましに腕を伸ばすと、ガットの瞬発力をそのまま利用して転ばせる形で背負投をしている。このまま頭を道にぶつければ無事では済まないが、そこはムデンが引っ張って頭への打撃を防いでいる。

「刃物ばかりに目をやるとこうなる」

 ムデンはガットを見下ろしてそう言った。ガットは何が起きたのか分からない顔をした後、牙をむき出しにして攻撃しようとして失敗した。頭への打撃を防いだといってもそれ以外の全身を道に叩きつけられており、利用したガットそのもの力は凄まじいものがあった。ありていにいって、全身打撲で複数骨折である。

 ちなみに獣人は全力疾走中に壁に正面衝突すると死ぬ。それぐらいの力がある。

 痛みに痺れるガットの頭をなでて、ムデンは優しい声で言った。

「魔法で治療はしているから頭を冷やせ」

「な……」

 しばし言葉を失い、ガットはその後で悔しそうな顔をした。ムデンに敵意がないことを、戦いの間に何度も確認したようであった。ムデンはその気になれば折れた短剣の破片を操って後ろから刺すことも、その破片の上にガットを投げることもできたのである。

 ガットはそれでも、と口を開く。

「なんで私の匂いがするの!? それも最近つけたみたいに」

「色々あってな。ガットじゃないなら、今はなんと呼べばいい?」

「……ガットは種族名。今の私はブル」

「青、か」

 毛玉みたいだった全身の毛は抜け落ちて、いまや頭髪にしか青の由来は残っていない。それでも以前の面影は残っていた。思い出のかけらも。

「その外套、シレンツィオを殺して奪ったの?」

 ひどく悲しそうな顔でブルはそんなことを言う。ムデンの影から、ボーラが姿を見せた。

「”そんなわけないでしょう。シレンツィオさんは捨鉢ですけど冗談ファンタジーのように強いんです”」

 ブルが驚いた顔をして左右を見ている。ボーラはブルの眼前で手を振った後、ムデンを見た。

”大変ですよ、ガットちゃん改めブルちゃん、羽妖精が見えなくなってる!”

”そういえば羽妖精が見えないやつがいるとか話をしていたな。確か頭が固いとどうとか”

”はい。強固な固定観念に支配されるとそうなります……”

”固定観念、か。人間にも坊主の一部がそんな感じではあった。眼の前にあることすら理解しようとしないで騒ぐ”

”嫌な思い出でも?”

”いや、尼僧何十人かと仲良くしていただけだ。なぜか火炙りになりそうになったが”

”今それやったら私が火炙りを代行しますからね”

”安心しろ。尼僧院にいかない限りは大丈夫だ”

”全然これっぽっちも大丈夫じゃないじゃないですかヤダー!!”

 ブルが幼い頃のように目を丸くしている。テレパスは持っていなくても、人の一〇万倍以上もある嗅覚でムデンが何をしているのか、分かるのだった。獣人は人間とは根本から異なる世界の見え方をしているのである。

「誰かと話をしている?」

「ボーラだ。覚えてないか」

「ボーラ」

 ブルはそう言った後、頭を振った。

「そんなはずない。ボーラは私が小さい頃に見ていた夢の友達」

”友達と思ってくれていたのなら、嬉しいです!”

 ボーラは喜んでブルの耳をぺちぺちしたが、単に耳が揺れるだけで終わった。

「夢ではない。が、まあそれを言っても信じようとしない限りは無理か。知性というのも困ったものだ。時に現実から目を逸らす原因になる」

”種族が変わっても表情すら変わらない、ムデンさんほど柔軟なのもどうかと思いますが”

”羽妖精が見えないよりはマシだろう”

 ムデンはそうボーラとやり取りをした後、彼にしては珍しく軽くため息をついた。ボーラが見えないのでは自分がシレンツィオだという証がなにもないのである。

「テティスは無事に回復したか」

 ブルは口を閉ざした。口を割りたいなら拷問でもなんでもしてみろという顔。

 ムデンは表情も変えずに外套を脱ぐと、ブルに押し付けた。

「シレンツィオが迎えに行くと言っていたと伝えてくれ。それだけが事実だ」

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