第90話 麦酢で乾杯

(9)


 山を降りようとしたところで、空が薄暗いことに気づいた。もう夕刻である。

 これから、気温が一気に下がりはじめる。

”ずいぶん遅くまでかかったようですね。シレンツィオさん”

 ボーラは周囲を見ながら言った。気づけば時間が経っていた、というやつだ。

”そういうこともある。野宿するか”

”わーい。でも大丈夫ですか。万事適当な羽妖精はともかく、シレンツィオさんだと凍死とかしてしまうんじゃ”

”そうならんようにしないといけない”

 そのための、早めの野宿決断である。シレンツィオが風雨を避けるために、選んだのは船の材料にいいなと言っていた、巨木であった。見た目は立派だが中が腐っているのを思い出し、ここで一夜を過ごそうというのである。

 まずは、生乾きの枝やら草やらを集めては火をつけて、巨木の中を燻す。これをしないと木に巣食う大小さまざまな虫に刺されたり噛まれたりする。

”煙いですね”

”仕方ない。虫に刺されるよりはいい”

”私は刺したりしませんよ? 良かったですね!”

”まったくだな”

 軽口を思い合って黒い外套に包まり、入口に蓋をして寝るのである。体温を下げないためには密封した場所が一番であり、さらに言えば狭ければ狭いほど、室温維持に必要な熱量は減った。

 ちなみに焚き火はしない。危ないからである。乾燥が足りない生木などが爆ぜることがままあるからだ。

”寝て起きたら凍死していたとか、ないようにしてくださいね。シレンツィオさん”

”そもそも寝ない。寝ると体温が下がる”

”じゃあ夜通し、おしゃべりしましょうね。恋人みたいに”

”それもいいが酒もあるぞ”

”いいですねえ。飲みましょう、飲みましょう。あ、でもあの麦酒じゃないでしょうね?”

”好きではないか”

”料理にはいいと思うんですけど……”

”そうか。とはいえ代わりはないぞ”

”仕方ないですよね……”

 ボーラはそう言って肩を落とした後、顔をあげた。

”でもせっかくのお祝いですから、元気に行きましょう”

”そうなるかな”

”そうですよー。魔力汚染ともいうべき現象は改善すると思いますから、大勝利です”

”そうか”

 酒を入れているのは小さな木樽である。重くて不便なのだが、シレンツィオは革袋に懲りたらしくて木樽に酒を入れて持ち運んでいた。

”量が少ない”

”漏れてたんですかねえ”

”困ったものだ”

 飲む。一人と一妖精は同時に顔をしかめている。

”酢だな”

”酢ですね”

 とは酢としてみれば味は中々のものだった。濃縮された麦の味と木樽の味がないまぜになり、樹の実のような香りがする。

”これで酒だったらよかったんだが”

”そうですねえ。シレンツィオさん、これ、精霊になにか頼んだんじゃないですか?”

”そうかもしれん。なにしろ俺は、革袋の水は嫌だとか、そういうことを思っていた”

”余裕ですねシレンツィオさん。私は今回、もう駄目だと何度も思いました”

”そうなのか”

”はい。そもそも戦うしかないと思ってもいたので”

”なるほどな”

”シレンツィオさんはなんで戦わないでいけると思ったんですか?”

”船乗りの格言だ。霧と戦うな、と言う。不思議なものでな。海なのに、なぜだか霧がでたあとは座礁する可能性が高くなる”

”水深と霧の発生条件に関係でもあるんですかねえ。それとも精霊が海の上にもいるとか”

”さてな。まあ、形のないものと戦うのは無意味だという教訓めいた話なのかもしれん”

 そう言いながらシレンツィオはそっと短剣を取り出した。戦闘用の短剣だった。

”どうしたんです?”

”誰か近づいてくる”

”は?”

 ボーラは慌てて探知魔法を使っている。

”ほんとだ。シレンツィオさん、一人近づいてきてます。あ、でもこれは”

「”こんばんは、シレンツィオくん”」

”エムアティ校長、だろうか”

”シレンツィオさん、口、口!”

「エムアティ校長だろうか」

 シレンツィオが問うと、外から声が聞こえてきた。

「”言い直さないでもいいけれど、口を使うのは習慣化したほうがいいわよ。うっかりするとそのうち呼吸も忘れてしまうから”」

”なるほど”

「”約束、覚えている?”」

”もちろんだ”

「”じゃあ、開けて?”」

「ああ」

 もちろんだと言ってシレンツィオは短剣を派手に突き出している。蓋の向こうにいた何かが後ろに飛びのけて哄笑した。

「”酷いじゃない!”」

 シレンツィオが見たものは、背中に透き通った翅を持ったエルフのようなものであった。美しいが、どこか傲慢さと冷酷さを感じる姿である。美しさに目が行くが、次に気づいたのは遠近感が狂うほど大きいことだった。一〇mほどもあろうか。それが笑うたびに、周囲の植物が捩じ曲がっていき、奇怪な花を咲かせている。

”そうでもない。分かっていたことだ”

”どうやって気付いたの?”

”二つある。一つ目は殺気が漏れていたことだ。”

”もう一つは?”

 エルフモドキが尋ねると、シレンツィオは両手にそれぞれ短剣を持ちながら口を開いている。

”エムアティ校長だろうかという質問に、答えなかった。どういうわけだか嘘は人間の専売特許だ。妖精やその仲間は人間から見てまともな嘘がつけない”

”私の嘘はバレバレでしたか”

”可愛いとは思った”

”シレンツィオさんは私のことが大好きですと”

 肩に乗っているボーラが、口を開いた。

「残念でしたね、シレンツィオさんはあなたに負けないくらいファンタジーなんです」

 その言葉にシレンツィオが反応した。

”どういう意味だ”

”私もシレンツィオさんが大好きってことです。それより、目の前の羽妖精女王モドキに集中してください。邪悪感知の魔法に反応しています”

”羽妖精女王モドキ”

 シレンツィオは改めて眼の前のエルフもどきを観察した。羽妖精と森妖精、どちらも妖精なので似通ったところがあるかもしれない。見れば両者の特徴を持ったこれは、妖精というものの源流であろうか。おとぎ話ではなんと言っていたかなとシレンツィオは考えながら距離を測った。

 まあ精霊よりは戦えそうだ。シレンツィオはそう考える。

「”日記を渡しなさい。それは人間にはなんの価値もない”」

”あんたは人間じゃないのか”

 何が面白かったのか、エルフモドキは大笑いした。ただし、歪んだ笑いであった。

”ええ、ええ! たしかに人間でしたとも! しかし”

 エルフモドキは憎しみの目を向けた。

”人間は私を人間とは認めなかったのよ!”

 エルフモドキの言葉に呼応して植物が捻じ曲がり、槍のようになってシレンツィオに襲いかかった。矢と異なって短剣ではね飛ばせる重量ではなく、シレンツィオは横になって転がって避けている。立って飛んだりすると暗い中、足元不如意で転ぶためである。

「”無様ね! 人間っ”」

”そいつは逆だ”

 シレンツィオは静かに口を開いた。

「”人間だから無様なときもある。あんたはそれを捨てたから人間じゃなくなったんじゃないか”」

 シレンツィオの言葉は因果が逆転した詭弁そのものであったが、エルフモドキの心をひどく傷つけたようで、連続して攻撃を開始した。執拗なまでにシレンツィオの身を貫こうと植物の槍を飛ばしてくる。

”魔法をそんなに使うと世界が壊れる!”

 羽妖精のそんな叫びを聞きながら、シレンツィオは短剣を地面に突き立てて転がる自分を急制動した。そのまま起き上がりからの蜻蛉跳びで身をひねって躱して見せる。

 迫りくる最後の槍は短剣を交差させて受けて、そらした。

 シレンツィオは苦い顔になる。それを見たエルフモドキが、邪悪な喜びの声をあげた

「”あら、あらあらあら。何その手、焼けただれてるじゃない”」

”シレンツィオさん!”

”気にするな。まだ当分は持つ”

”ど、どうしたんですか”

”どうも鉄を握ると火傷するらしい”

”そんな羽妖精やエルフじゃあるまいし”

”テティスたちの名のりが人間だったのを忘れたか”

”あ”

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