第89話 ヤオト

 シレンツィオは苦笑した後、さあ、それでは鬼が出るか、蛇がでるかと口にして、奥地へ進んでいる。

”シレンツィオさん、なんだか私の口の中も熱くなってきたような……”

 シレンツィオは自分の右腕から古傷がなくなっていくのを眺めた。耳の先がかゆい。。

”急がないといけないな”

”はい。何があるのか……”

”ろくでもないものであろうことは間違いないがないな。悪魔が探していたものと、同じだろう”

 シレンツィオは道中の木々が女体に変わっているのを見た。それらがすべて同じ言葉を繰り返している。

”ヤオト、でしょうかそれともヤルダ?オト”

”ドライアドだな。エコーかもしれんが。いずれにせよ陸のスキュラと同じようなものだ。耳を貸すな”

”はい”

 ボーラは襟の中に入ってシレンツィオに抱きつき、目と耳を塞いでいる。耳を貸すなと言う一言で本当に無視できるシレンツィオの精神は、一体どんな構造であろうか。ボーラはシレンツィオのことを考えている間だけは自分が正気を保っていると自覚して、思う存分シレンツィオさん大好きですを連呼している。

 他方シレンツィオはどうかというと、まったくの無表情、いつも通りであった。ボーラが見たらさぞかし傷ついた顔をしたであろうが、シレンツィオとしては見せる相手がいないのだから表情を作るのが面倒くさいのだった。

 踏みつける地面の草が人面になり、ドライアドと同じことを喋りだす。石も、岩も、そこから人の姿が姿を見せようとしていた。


 シレンツィオが向かったのは、魔法陣のあった倒壊した建物である。傷をつけた魔法陣を割って、<それ>はゆっくりと湧き出てくるようであった。

 すでに建物の周辺は変質しきっており、建物を中心としてすべての生物、無生物が人の姿をとっており、さながら壮大な宮殿の中に迷い込んだようであった。

”なんだあれは”

 <それ>は油滴のようであり、七色に輝く霧でもあった。ゆるやかに意思あるかのように近寄ってくる。親玉は人型でないのかと、シレンツィオは妙な感想を持っている。

”ボーラ、あれは何かわかるか”

 ボーラが襟から顔を出した。奇っ怪な<それ>を見て、慌てて自分の腕を抑える。腕が伸びているのを自覚したようだった。

”分かりませんが、でも、分かります”

”どういうことだ”

”いつものクセで魔法探知を掛けたら、眼の前のあれが聞き届けた感覚があるんです”

”ほう”

 シレンツィオは<それ>から目を離さず、距離を取りながら口を開いた。

”つまりはあれが、精霊というわけだな。実は目に見えるものだったのか”

”可視化された魔力の塊にも見えます。いえ、たぶんそうなんでしょう”

 ボーラはそこまで言って、透き通った羽を震わせた。

”ど、どうしましょう、シレンツィオさん。これを羽妖精や人間がどうにかできるとは到底思えないんですけど”

”そうか?”

”怖いレベルの冷静さ!”

”色々置かせてくれた母親に感謝せねばならんな”

”いやでも、でもでも、どうするんですかシレンツィオさん、お得意の短剣なんか絶対通じませんよ!”

”戦いに来たわけじゃないだろう”

”そうですけど! 展開的にラスボスですよこれ!”

”それが何かはしらないが、一つ分かっていることはある”

 シレンツィオは息を吸って、口を開いた。

「”すまないが、ここから離れてくれ”」

 シレンツィオが意思を込めて言うと、聞き届けられた感覚があった。シレンツィオの口の端がはっきりわかるほど笑っている。

 すると、<それ>はゆっくりと動き出した。

 浮かび上がり、少しずつ高く、最後には早く。天に昇っていったと思ったら、唐突に消えた。

 シレンツィオはボーラに思念を飛ばした。

”言葉が通じるんだ。願いを聞いてくれる存在でもある。だったら短剣なんかいらんだろう”

 ボーラは飛ぶのも忘れてシレンツィオを見上げたあと、彼の手の上で口を開いた。

「す、末永くよろしくお願いします……」

 なんでそうなる、とはシレンツィオは言わなかった。ただ、ああ、と答えている。



◯歴史的補講


 シレンツィオは山都ヘキトゥーラに戻ってこなかった。

 しかし食中毒もどきの問題はこの日を境に急速に良くなり、平穏が戻ってきた。

 多くのエルフたちはシレンツィオを探したが、四年ほどの後、捜索を打ち切ってしまっている。


 彼がすべての問題を解決したのだ。

 そう主張する者もいる。ピッセロや、ガットなどの獣人、エルフではマクアディとテティスがそれにあたる。

 問題を解決したとまでは信じていないが、問題を解決するために動いたと信じる者もいる。

 エルフリーデやクァビア、エルフの騎士などがこれにあたる。

 それ以外の大部分の者は、蕎麦、うまぁ。であった。大部分のエルフにとって、本件は大きな事件になる前に解決したものであり、喉元すぎれば熱さも忘れるの言葉がここから生まれた通り、シレンツィオを、忘れていった。


 テティスの心中やいかがであったろうか。幼い頃の鮮烈な体験と喪失は、ひどく心に傷跡を残したはずである。あるいは彼女は、ガットと一緒に何度も山の中に入ったのかもしれない。


 エムアティの消息は、不明である。一方で替え玉とされた少女が、数日で解放されたことまでは分かっている。その先には記録がない。


 記録に残るエルフの国でのシレンツィオは、これにて終わった。

 ここから先はアルバ国の資料に頼らなければならない。

 

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