第86話 蕎麦のパスタ
”三時間で全部読みます。重要そうな部分を書き出しますね。私たちは、記憶力が全然ないので”
羽妖精は脳が小さい上に飛翔能力を維持するために脳の多くの部分を飛行演算に回している。このため記憶力が人間と比べると著しく劣った。良く猫と比較されるほどである。
”わかった。俺は貴族料理を試してみようと思う”
”北大陸のエルフのですか?”
”ああ。冷めた料理の理由は、もしかしたら過去の対策かもしれん”
”なるほど。エルフが変わりたがらないのと、歴史と伝統、それらがこの山の食中毒対策なら、何かあるかもしれませんね。食に関する部分だけ抜き出しましょうか。それなら一五分でできます”
”早いな”
”抜けはありません。羽妖精を信じてくださいとは言いにくいですが、ボーラを信じてください”
”それについては疑ったことはない”
”はい”
部屋に戻ると、早速の読書である。シレンツィオが懐から出した数冊の本を、ボーラは目を見開いて数秒で一頁を読み込んでいる。
”これが生体OCRの術……!”
”意味は分からんが心強い”
シレンツィオが蕎麦粥を作るかと考えていると、ボーラが顔をあげた。
”ありました。冷たい料理が出るようになったのと、体調が良くなるのは、ある程度の因果関係がありそうです”
”そうか。粥はどうだ。粥だけは暖かいものだそうだが”
”エムアティさんは冷たい粥を食べてますね。あと、冷たいのは死ぬほどまずい、とも”
”冷めた粥はそうだろうな。そもそも消化に悪い。この部分だけ変わってしまった可能性もあるか”
”待ってください。二冊目の最後の方でひきわり粥は暖かくても舌が痺れないとか言っています」
シレンツィオは少しばかり考えた後、ボーラに向かって思念している。
”俺が挽いた蕎麦だけは舌が痺れないと言われていた”
”そうですね”
”暖かい粥についてだが、テティスはひきわり粥だと言っていた”
”はい。そうですね。私もその場にいました”
”二つの共通点は実を細かくしてあることだ。もしかしたら毒は”実を細かくすることで一時的に毒が抜けるのかもしれない”
ボーラはしばらく動きを止めた後、シレンツィオの瞳に自分の姿を映した。
”……にわかには信じられない仮説ですね。それで食中毒が抜けるならだれも苦労はしません”
”食中毒ならな”
”なる、ほど”
”試す価値はあるだろう”
”そうですね”
シレンツィオは頷いた。
”それはそれとして、エムアティ校長の父が山に入ったと言っていた。そのあたりを調べてくれんか”
”分かりました。すぐに”
シレンツィオは肩を回すと、パスタを作ることにした。蕎麦のパスタである。冷製パスタ自体は昔から夏の料理があるので、それを蕎麦を使って再現するのである。
まずは、粉を挽く。一度粉にしても時間で毒のような症状を示すので、挽きたてにする。思えば手作りパスタのときも、無事に食えはしたのだった。蕎麦を一心不乱に粉挽きする。
蕎麦自体は固まりにくいので、小麦と混ぜて生地を作る。打ち粉をふるいながらのし棒で伸ばし、切る。
シレンツィオは熟考した後、細長いパスタに成形している。あまりかまずに飲み込めるように、という配慮である。これまで口の中が熱いとは聞いていたが、腹が熱いとか、痛いという話はなかったための工夫であった。
”漂着したエルフは、小麦なんて手に入らなかったろうから、全部蕎麦の方がよかったかもしれんが……まあ、ものは試しだ”
成形した蕎麦のパスタを茹でる。パスタであるので当然大量の塩が入っているのだが、これは失敗であった。思いの外蕎麦が塩を吸着させて、塩気の強いものになってしまった。
塩気が前に出る料理を嫌がるのがアルバ風であるから、これは失敗であった。
シレンツィオは表情一つ変えずに作り直している。冷静沈着で失敗に対してすぐ対応する。思えば料理はシレンツィオにうってつけの仕事であった。
今度は塩を減らし、お湯で茹で上げる。水にさらしてよく洗い、ザルの上に置いた。皿だと麺から出た水気によってパスタの状態が悪くなる。
吸着しやすい特徴からシレンツィオはパスタソースを食べる直前に必要な分だけ付ける方式とした。
これが本邦の食文化にも強い影響を与えた蕎麦のパスタである。本邦ではあまりに流行しすぎて蕎麦と言えばこの形態を指すようになった。
シレンツィオは合わせて魚の出汁と醤油でつけ汁を作っている。
”できた……が、問題だな”
調べましたーと思念を飛ばしながらボーラが飛んできた。シレンツィオの肩に止まる。
”何が問題なんですか? 美味しそうですけど”
”食べるときに音がでる”
”あー。まあでも、仕方ないですよ。非常時ですし、作っちゃいましたし、食べてもらいましょうよ”
”仕方ないか”
それで食事を食べさせることにした。今回もマクアディが実験役になるはずだったが、試作などに時間が取られて直接テティスに出すことになった。ガットも一緒である。
「おじさま……これはあの」
「貴族料理を参考にしているが大丈夫、とは思う。まあ一口食べてみてくれ。だめならまた別の手を考える」
テティスはガットと顔を見合わせたあと、短剣にパスタを巻き付けて食べた。ちなみにこの食べ方は逆輸入されてアルバでの長いパスタの一般的な食べ方になった。短剣がフォークに変わっただけで、今も同様である。
テティスは何か言いたそうな顔をしているが、食べている最中である。シレンツィオはテティスの頭を撫でて微笑んだ。
「落ち着いてからでいい」
テティスは上目遣いの顔で咀嚼した後、微笑みを浮かべた。
「不思議と美味しいです。おじさま。これなら毎日でも食べられます」
「それは良かった」
「にゃーもすぅです」
「そうか」
シレンツィオはガットの頭も撫でている。
「このパスタの作り方をすぐに厨房に伝えて大量生産に入る」
”山から降りればいいだけなのに、シレンツィオさん甘いですねえ”
”邪悪な羽妖精と違っておじさまは心優しいのです”
テティスはテレパスでそう言った。食べている最中なので口を使えなかったのである。
”でも、困りましたね”
テティスはそう言って微笑んだ。
”どうした”
”羽妖精ではないですが、おじさまを独占したくなります”
”とっくの昔にその準備を進めているようなんですが、何言ってるんでしょうね。この性悪エルフは”
”そんなことはしていませんからね、おじさま”
”そうか”
”でもわたくしがついていくのはいいですよね”
”それが準備いうとるんじゃい!!”
羽妖精はそう思念を爆発させたが、どことなく心配そうなのはテティスにもシレンツィオにも伝わっていた。テティスは笑って、大丈夫ですと言った。
「実家で出ていた料理も、今なら美味しく食べることができるのでしょうか」
「そこのところは分からんが、歴史と伝統というところで助かった。テティスの祖先たちに感謝だな」
「実家はあまりいい思い出がないところですけれど、そう言ってくださるのは嬉しいです。おじさま」
シレンツィオは頷いて、次の仕事に取り掛かっている。
”当面の対応はできた。次だ”
”抜本的な対処も狙っているんですね”
”当然だろう”
”そうですね、シレンツィオさんならそう言うと思います”
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