第84話 テティスの苦境

(7)

 翌朝になるとシレンツィオはテティスとガットのもとを訪れている。二人にはマクアディたちで安全を確認した食材だけを使って料理を作っているのだが、それでも調子が良いとまでは言えなかった。二人並んで寝台の上にいた。

 身を起こす元気はないが、それでもテティスは微笑んでいる。

「それで六〇〇人分も料理を作ったのですか」

「ああ。大変だった。仕込みがなかったからな」

「なるほど。仕込みというのは事前準備ですよね」

「そういう言い方もできるな」

「私も手伝いましょうか?」

「それは嬉しいが、寝ていないでいいのか?」

「また別な女が周囲をうろついているようですので」

 シレンツィオは意味がわからない、というよりも、見た目が八歳の娘にそんな事を言われても、恋愛の話だとは思わない。

 そんな様子に、テティスは罪のなさそうな笑顔を向けた。

「おじさまに面倒見ていただいてとても嬉しく、このままずっとと思いはしたのですが」

 テティスはガットを見やった。ガットは苦しそうだが、体を動かさないのもまた辛そうではあった。シレンツィオはしばし考えて頷いている。

「そうか」

「お昼にはお手伝いできるようにしますね」

「無理はするな」

「わたくしになにかあれば悲しんでくれますか?」

「当然だ」

「嬉しいです。おじさま」

 テティスはシレンツィオが悲しむであろうことを喜んでいた。喜んでいないのはボーラである。

”すぐ元気にしてあげるから喜んでくださいね”

”あらそう? がんばってくださいね”

 いい笑顔で即座に言い返すテティス。

”ムカッ”

 テティスはボーラを無視して髪の毛を荒く編んで、シレンツィオにくっつくように歩いている。

 そのまま歩いて中庭に出てみれば、エルフの騎士やら兵士たちはエムアティを探して大騒ぎである。参考人として連れて行かれる替え玉というか本人が、シレンツィオをみつけると軽く片目をつぶって見せた。シレンツィオの方はというと、襟がカンフーするわ、抱きつかれた太ももから冷気があがってくるわ、夜に寝小便されるわで大騒ぎである。

”おじさま? 英雄色を好むといいますけれど、あまり遊びすぎるのはよくありませんよ?”

”そうだそうだ!”

「にゃぁにゃぁ」

「今の状況を考えろ。遊ぶ暇があるなら料理を作っている」

 シレンツィオは表情一つ買えずにそう言うと、ほんとかなぁ? とテティスは小首をかしげた。その姿が可愛らしい。

”あざとい性悪幼女エルフですよシレンツィオさん! 騙されちゃだめ!”

”騙そうとしていたのはあなたでしょう”

”それはもう終わってまぁす。残念でしたぁ”

 ボーラはそう言いながらシレンツィオに抱きついてキスしようとした。次の瞬間、テティスが普段の四倍ほどの速度で翅をつかんで遠くに放り投げている。鱗粉が舞い散った。シレンツィオの顔にかかっている。シレンツィオには珍しく、苦そうな顔をした。

 テティスは何事もなかったような顔で、にっこり。

「おじさまがいつもわたくしを気にかけてくれていて嬉しいです」

「そうか」

”おいこらナンジャイ!”

 ボーラがすごい速度で戻ってきた。

”妖精のラブコメ邪魔すると馬に蹴らせるぞ!”

”あら、醜い正体を現しましたね。おじさま。あれが凶悪な羽妖精の素の姿です”

 そこまで言った後でテティスは後ろに倒れようとしてシレンツィオに助けられている。顔が真っ赤であり、熱が出ているのは明白だった。

「おかしいですね。朝は調子が良かったんです。本当ですよ。羽妖精が毒を撒いたのかもしれません」

 朝は調子が良かったと、何度もそう言うテティスの頭を撫でて、シレンツィオは抱き上げている。胸部や腹に負担がかかるといけないので、横抱きにしている。

「食事は大丈夫だったのか」

「はい……でも少し」

「少し痺れたか」

「最近は空気でもそうなるので」

 シレンツィオの顔が険しくなった。

「そうか。まずは安静にしよう」

”山から脱出したほうが良くないですか? シレンツィオさん”

 ボーラが真顔になってそんなことを言っている。シレンツィオは頷いた後、考えている。

”それも検討せねばなるまい”

 それに反応したのはテティスだった。手を伸ばしてシレンツィオの頬に触れている。

「だめです。おじさま、この学校を出たら退学になります。……魔法が使えないエルフだと判断されてしまうんです。事実上貴族としての道が絶たれます」

”命より大事なことですか、それが”

 ボーラの怒りの思念を、テティスは無視している。

”私だけではありません。幼年学校も卒業できないのでは、その後のエルフ生はただただ暗いものになります。誰も山を降りようとしないでしょう”

”ほんと北大陸のエルフは最低!”

 ボーラは激怒した。シレンツィオは軽く息を吐くと、ではまずは休まないとなと言った。

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