第73話 酒と豚

 実際翌日になるとシレンツィオは市場に行って酒を買い求めている。

 そう言えば、最近酒を飲んでないとシレンツィオは考えた。子どもたちと付き合う関係で酒が周辺にないのだった。まあ飲める水があるのに酒を飲むのもおかしな話かと考え直している。

 この時代、飲用に適した水は思いの外少ない。そもそも細菌という存在が認識されておらず、減菌殺菌する重要性が広く認知されていないため、微生物が湧いてしまった汚染水源の回復が困難であるというもの理由の一つである。まともな飲用水がないとなると貴重な燃料を消費して煮沸せざるをえず、それでもなお、安全かどうかは確実ではなかった。

 一例をあげるとシレンツィオがこの山都に来るまでの間、飲んだ水の色が記録に残っている。

 茶色、茶色、茶色生臭い、色なし。

 こんな感じである。七割ほどが水に色がついていたという。魔法文明華やかなりしエルフであっても平野部の水状況はこのようなものだった。

 だからこその、酒である。酒はなにより酒精の力で微生物が激減するため、腐らない飲用水として世界中で使われていた。

”シレンツィオさん、あそこのお酒が安いですよ”

”確かに安いな。買うか”

 そう言って味見のあと、樽を一つ買っている。麦酒という麦を使った酒である。エルフは大麦パンからこの酒を作っていた。名前は同じでも現代飲まれている麦酒とは製法が大きく異なる。

 ルース王国では樽の大きさは法律で決められていたので、シレンツィオがこのときどれくらいの大きさの樽を買ったのかは、現代でも分かる。

 その大きさは内容量およそ一〇〇リットルであったという。これに樽自身の重さが加わるので大変な重さである。

”いくら安いとは言っても、また余らせるんじゃないんですか?”

”大丈夫だろう。酒というものは用途が多い”

 実際シレンツィオは醤油研究の一環として、豚肉の固まりを醤油と酒で煮ている。風味が複雑になることを期待してのことであった。

 安く買ったと記録にあるので、使用している酒はおそらく出来の良くない麦酒であったろう。不出来な酒は毎年一定数あって、それにも値段がついた。料理に使うことも多かったからである。

 薬学の分野以外では秤すらちゃんとそろっていない時代、料理も、酒造りも全部目分量である。当然、出来不出来が大きかった。そもそも材料である麦にしてから品質は安定していたとは言い難い。

 シレンツィオが手にしていた酒は麦酒の中でも保存が利くように酒精を高めようとして失敗したものである。酒精は糖を微生物が転換して生成するものなので、甘く作ったはいいが、微生物の働きが良くなく、甘みが大いに残った酒として、そのまま売りにだされていたものをシレンツィオが安く買ったというわけだった。料理酒ならこれで十分、むしろ甘みがあったほうがいいという判断である。

 なお、酒は酢の中間生成物でもあるので、そのうち酢になるだろう、という読みもある。実際のところは、あまりうまくいかないのだったが。

 そうしてシレンツィオは醤油と蕎麦の新しい料理をつくらんと背筋を伸ばして調理するのである。顔は真剣そのものである。

 この背筋を伸ばして料理する様はエルフ的に大層面白かった、または感銘を与えるものだったらしく、料理するシレンツィオは絵画のモチーフになっている。おそらく最初の一枚はテティスが描かせたのだろう。

 味見するシレンツィオ。

”私は肉なんて食べませんけど、どうですシレンツィオさん。お味は”

”豚の臭いが強いな。風味を抑えたい”

”匂いの強いものを入れるのはどうですか? 羽には羽を、ですよ”

”そうだな。臭み消しにニンニクを入れてみるか”

”秋津洲では魚の臭み消しにショウガやネギを使っていました”

”ネギか。そういえば山にあったな”

 午後には、シレンツィオは遺跡破壊するついでに山の中で野生のネギを採取している。

 栽培されたネギと比較すると、野生のネギは時々信じられないほど太く、たくましい姿を形作る。その太さは白菜と変わらぬほどである。近年の研究では原産地はルース王国よりずっと東方の山中であり、人間の手で世界中に運ばれたという話である。シレンツィオが採取したのは一部が野生化し、さらに近縁種と交雑したものであろう。


 シレンツィオが掘り出したのは直径45cmにも達する立派なものであった。栽培種と違い、長くもなく、青い部分ばかりが目立った。

”シレンツィオさん、これ、ネギなんですか?”

”ネギだ。間違いない”

”なる、ほど。すれ違ってもネギとは気づかない気がします。一杯枝分かれしていますし”

”だから山に残っていた”

”なるほど”

 短剣というよりも鉈で葉を切り落とす。切り落とすと表現するにふさわしい大きさと重さである。

 ネギ特有の防御成分が鼻につく。この防御成分が人間に好まれるのだから、ネギとしても不本意であろう。もっともネギが世界中に広まったのも人間のおかげである。

 良く洗い、変色した部分を取り除き、鍋に入る大きさに切ったら入れる。

”シレンツィオさん。ネギ料理が食べたいです!”

”島国では乾酪と一緒に焼くことが多いな。肉を煮る間に昼飯がてらつくるか”

”わーい”

 シレンツィオはわずかに微笑むと、ネギを同じように処理して、今度は刻んだ。二本の短剣を左右の手でもって刻んでいくのである。

 刻み終わると今度は蕎麦粉を使ったフリコを作る。蕎麦粉一に小麦粉一を加え牛乳二と卵二個を入れてよく混ぜ、熱した銅板の上で焼くのである。

 湯気が盛んにあがってきたらひっくり返して、端の方を折る。これを額縁、本邦では土手という。

 この額縁の中に刻んだネギと乾酪チーズを入れ、火が通ったら完成である。上にオリーブ油を回し掛けて食べる。

”わぁ、油と乾酪以外は秋津島と同じ材料なのに、随分違う感じですねえ”

”そうなのか”

”食べてもいいですか?”

”もちろんだ”

 小さく切って貰ったフリコを口にすると、ボーラは瞬く間に笑顔になった。

”上から醤油をかけたいです!!”

”合うのか?”

”秋津島生まれは醤油好きなんですよね。試したいんですが駄目でしょうか”

”いや、かまわん”

 それで醤油をかけて食べた。ボーラはこれだこれだと言う顔をしているが、シレンツィオは今一と思ったのか、そのまま食べた。

 食べながら、考える。

”ところで、秋津洲ではネギをどう食べるんだ?”

”薬味として使いますね。あ。ネギをそのまま炭火で焼いて醤油で食べることもしますね”

”うまいのか”

”はい”

 シレンツィオは試してみたが、あまりうまいとは思えなかった。

”焼き方に工夫があるのかもしれないな”

”炭火の直で焼くとおいしいですよ”

”なるほど。薪で銅板鍋の上で焼くのはいかんのだな”

 薪の方が火力は低い。おそらくその差が味にでているのだろうとあたりをつけたシレンツィオは炭をどこで調達しようと考えた。飽くなき好奇心である。

”肉の方はどうかな”

 シレンツィオは酒と醤油で煮た豚肉を食し、わずかに目を開いている。

”おいしかったんですね?”

”テティスやガットを喜ばすことができそうだな”

”〇点、〇点ですよシレンツィオさん”


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