第69話 醤油

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 シレンツィオという人物は、別段秘密主義というわけでもないのだが、いちいち他人に説明することはない。さらに言い添えれば誰かのために動いていたとしても、その事を本人に伝えたりもしない。他人に感謝しろとか言わずにはいられない人種とは違うのである。

 それ自体は良くも悪くもないのだが、誤解を受けやすいのも確かである。


 このころのシレンツィオの動きを誤解した団体、個人には事欠かないが、その中で代表を二つあげるのであれば、組織としてはルース王国と、アルバ国である。

 アルバ国はシレンツィオがルース王国に亡命すると誤解した。係争地の男爵領など誰がいるかなどと、そういう風に考えたのだと断定した。

 一方ルース王国はシレンツィオがアルバ国からの密命を帯びた使者であると考えた。アルバ国と激戦を重ねるニクニッス国との間を取り持って欲しいのであろう、そういう風に思ったのである。

 そしてそういう結論ありきで見れば、たしかに怪しいところはたくさんあった。シレンツィの親切は、それぞれ亡命だの外交のための点数稼ぎだのに見えたのである。

 反動は、急であった。

 アルバ国で最大の権勢を誇るウリナ家はシレンツィオを帰国させようとし、他の家は、暗殺者を送った。

 ルース王国はシレンツィオ、というよりもアルバ国の真意を問いただそうとしていた。

 以上がシレンツィオが蕎麦について研究するうちに起きた状況である。シレンツィオ自身はそれらについてまったく関知していない。もっとも、関知していたとしても、大して気にもしていなかったろう。その方面にはそもそも興味がないのだった。シレンツィオを動かすのなら不幸な女を置いておけば良かったのだが、各国はその事実に気づいていない。


 まずシレンツィオに接触を図ってきたのは、ピッセロだった。今日も幼年学校の制服姿である。

「シレンツィオさま、帰国の準備ができましたよ?」

 シレンツィオはなんのことだと思ったが、口にすると騒ぎになりそうなので黙った。

 ピッセロは手を大きく振って自慢げである。

「ウリナ様は元老院を解体してでもシレンツィオさまを本国に戻すつもりです」

「俺は貿易の自由と国を守るために戦った。その俺が国の制度を壊してどうする。と伝えてくれ」

 シレンツィオは言葉に少しだけの優しさを込めた。ピッセロは息を呑んだ後、耳を隠す帽子を激しく揺らしている。中の耳が暴れているのである。

「こ、心からの英雄なんですね……」

「いや、そんな大層なものではない」

 謙遜ではない。シレンツィオの場合、心からそう思って言っている。だからこそ性質たちが悪いとも言えるし、人の心を動かすとも言える。

”蕎麦に夢中ですと付け加えてください! あと毒かもしれないものを調べているって”

 襟が激しくカンフーした。

”なぜ全部を言う必要がある”

”シレンツィオさんは無駄に色気出さないでいいからです!”

”そうか”

 もちろんボーラの言葉は聞き流された。シレンツィオの場合、色気というより面倒くさいので説明を惜しむ傾向があった。

 数日すると今度はきらびやかな衣装を来たルース王国の貴族がやってきたが、こちらはそもそもシレンツィオと面会することすらできなかった。貴族は男だったのである。

”シレンツィオさん、男性女性で扱いの差が酷くないですか”。塩対応超えて梅干し対応ですよ

”意味はよく分からんがそんなことはない。マクアディを見ろ”

”ヤバみが増してますよ。シレンツィオさん”

”そうか”

 ともあれルース王国は混乱した。会議は何度も行われ、密使ではないのかなどと答えに近いところまで一瞬行きかけたが、ここで常識が邪魔をした。そんなわけがないと結論づけてさらなる誤解を始めたのである。その誤解とはルース王国以外のどこかと接触を図っているのではないかというものであった。そして調べてみれば確かに獣人の密偵らしきものと何度も接触しているのである。

 国家というものはこういうとき、悪夢を見るものである。

 ルース王国は自分の庭で複数の国が好き勝手にやっていると思い始めた。


 一方シレンツィオは、どこ吹く風という風情である。彼は彼で忙しいのだった。遺跡も壊して回らないといけないし、うまいものも食べたい。面白そうなことは山ほどある。

 その一つが、走って来た。

「おじさま、黒いタレがきました」

 夜明け前、テティスがシレンツィオの寝床に突撃しながら、そんなことを言っている。

 貴族の子女としては、はしたないことこの上ないのだがテティスの場合、これをたしなめる教育係も側近もいなかった。

 なお、侍女であるガットも一緒に寝床に突撃している。

 シレンツィオはどうしていたかというと、釣床にて腹の上にボーラを乗せて寝ていたのだが、テティスの足音を聴きつけるとあわてて部屋に仕掛けた無数の罠を解除しに走っている。賢明な判断であろう。

 このためテティスたちは寝ているシレンツィオの腹の上に飛び込むつもりが、若干あわてたシレンツィオと対面する羽目になった。

「どうしたのです? そんなところに立って」

「まあ、色々だ。それで醤油が届いたのか」

「はい。樽一つ届きました」

「少しの量で良かったんだがな」

「はい。少しの量ですけど……」

 貴族と平民の感覚の違い、というものかもしれない。

”なんてことするんですか! 床に落ちたじゃないですか!!! もう少しでど根性妖精ですよ!”

 すごい勢いで飛んできたボーラが怒った。

「あら、お寝坊さんなんですね? あなたは二四時間警戒しておくべきですよ」

”何を取り繕っているんですか、シレンツィオさんの上で飛び跳ねようとしてたくせに!”

「おじさま、うそつきの羽妖精のいうことなど信用しないでください」

”うそつきは性悪エルフでーす”

 シレンツィオはテティスを抱き上げると、釣床の上に載せた。

「さておき、朝はまだ早いが食事にするか。醤油というのを試してみたいが、もうテティスの部屋にあるのか」

「はい」

 それで四人で移動した。ボーラはまだ怒っていた。

 シレンツィオは機械式時計を見て、時刻を確認した。いつもよりは二時間は早い。ちなみにこの機械式時計はシレンツィオの私物である。映画などでは懐中時計になっているが、実物は一抱えもある据え置き式の立派なものであった。鞄ひとつでやってきたにしては大きすぎることから、後に送ってもらったのだろうと言われている。

 醤油の樽を開けてみる。明かりを近づけて見た感じ、黒というよりは紫色である。実際秋津島では、紫と呼ぶこともあるらしい。少しばかりを手の甲に落として味見をすると、力強い香りが立ち上った。

「ふうむ」

「あんまりおいしくないですよね……」

 テティスが心配そうに言う。シレンツィオはしばらく考えた後、重々しく口を開いた。

「今うなったのは、魚醤とかなり違っていたからだ。他意はない」

 ボーラが寄ってきた。

”え、似てません? 色とか”

”魚醤と比べると、醤油はうまみが足りないな”

 ところで旨味という言葉があるのはアルバ、ニアアルバと秋津洲だけであるという。本邦でもアルバ料理が人気であるのは、そういう共通点があるせいかもしれない。

”そばがきに使ってみようかと思っていたが、うまみが足りない。どうしたものか”

 ボーラは不思議そうに小首を傾けた後、、小さく手を叩いた。

”あー。秋津洲では出汁と一緒に使いますね。確かに”

”出汁とはなんだ”

”汁物の一種なんですが、単独では使わないで料理に入れて使うものですね。かといって調味料でもないものです。主に旨味を加えるために使います”

 シレンツィオは太い腕を組んで考えた後、重々しく口を開いた。

「なるほど、醤油は魚醤の代用品として作られたのだな」

”えー。どうしてそんなこと思ったんです?”

「醤油を使うための手順が多すぎる。料理とは、手抜きできるなら時代とともにどんどん手抜きする性質があるものだ。それをあえてこの手間暇というのなら、おそらくは何かお手本があって、それを再現するために仕方なく手間暇をかけている、と考えた方がつじつまがあう」

”なる、ほど?”

「おそらくエルフは海から来て、山に移り住んだという歴史があるのだろうな。しかし魚醤は捨てきれず、こういう代用品を作ったのだろう」

”随分と大胆な仮説ですけど、どうなんでしょうね? エルフの別名は森妖精ですよ。シレンツィオさん”

”料理は嘘をつかんものだ。そのうち調べてみよう”

”調べ物が大好きですね。シレンツィオさん。まあ、さしあたってはどんな料理を作るかですねえ”

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