第68話 革袋の水

”どうやってシレンツィオさんを癒そうかなあ。女磨きも頑張りたいし、ああ、やることが多いです”

”とりあえずここを片付けて蕎麦の問題を考えたいもんだな”

”そうですねえ”

 谷というものは上手から流れてきた水が大地を削り取ってできるものである。流れてくる水、すなわち川がより上流で向きを変えると谷だけが残されることになる。この谷はそのようにしてできたもののようであった。この山にはそのような谷がいくつもある。

 見て回るだけでいくつか遺跡がありそうだなとは、シレンツィオの見立てである。山を降りて人間と戦うという決断をするまでに、人口が増えていって一時的な収容先が増えたのは間違いない。

”この谷の気温を維持する魔法陣がどこかにあると思うんですが、シレンツィオさんはどう推理します?”

”おそらくその魔法陣は砂岩で描かれているんだろう。細かい細工ができる岩という意味でだ。壊されたくもないだろうから、屋根付きの場所で厳重に守られているはずだ。場所は……”

 シレンツィオは周囲を見た。

”谷の中心部、または谷の上手、一番奥だろうな”

”なんでそう思ったんです?”

”この魔法が球型なら谷の中心部だろうし、熱風なりを吹き出すやつなのであれば、一番高いところに置くのが普通だろう”

”なるほど。精霊魔法的に正しい見解だと思います。シレンツィオさんの魔法勉強も役に立つものですねえ。馬鹿にしてすみません”

”気にするな”

”お詫びにお嫁さんになります。それとも裸でも鑑賞します?”

”羽妖精の食い物について教えてくれ”

”はーい”

 ボーラは自分の胸元に巻かれたハンカチを引っ張っている。

”大きい方がいいのかな”

”行くぞ”

 それでたどり着いた場所は谷の中心部、草や木々が伸び放題になっている場所であった。木の柱で立てられていた殿堂はとうの昔に倒壊しており、瓦が散乱するような状況であった。

”ここのはずなんだがな”

”そうですね。ここだと思います”

”この調子では魔法陣があったとしても壊れていると思うんだが”

”そうですねえ。うーん”

 ボーラが草などを引っ張っているを見て、シレンツィオは短剣を取り出した。ほとんど鉈のような形状の短剣である。船上では綱を切るのに用いる。手斧に分類されることもある品物である。

 これで、草を刈っていく。倒れている柱を蹴っ飛ばし、どうにか床を露出させた。

”魔法陣だ。見つけた”

”あれ、こちらは砂岩じゃなくて魔法陣を筆で書いているみたいですね”

 石を彫って描いた模様よりも床に筆で書いたほうが長持ちしているというのも皮肉な話ではある。

 まじまじと魔法陣を見てシレンツィオは考えだした。

”魔法の発動はなぜ模様でもできるんだろうな”

”世界中の魔法学者を悩ませる問題ですよ。それ”

”そうなのか”

”はい。その答えを知る存在は、この世にいないはずです”

”それも探知魔法か?”

”いえ、精霊魔法です”

”そうか”

 シレンツィオは模様を見る。床に描かれたこの模様が魔法効果を発生させる、というのは不思議でしかない。

”魔法は言葉……というかあれで発動するはずなんだがな”

”あれ、ですか?”

”意志だろう? 発動しない言葉には意思が入っていない。エルフが金について語ると魔法が発動してしまうのも、わざわざ魔法語なるものを作るのも、それが原因だろう”

”はい。正解です。シレンツィオさん。でも……”

”俺が魔法を使えないのはどうでもいいんだが、その理屈だとこの模様にも意思があることになってしまうな”

”そうなんですよね。そこのところが解決できないで何千年も困っています。魔法を使える種族が読み取ることで発動するとも言われていたんですけどねえ。結果は今のとおりです。この場所は無人で動いています。模様がただそこにあるだけで魔法が発動しているんです。こんなものを量産された日には一〇年かからずに惑星全滅ですよ”

”なるほどな。まあ、分かった”

 シレンツィオは短剣で床に傷をつけて魔法陣の模様を壊している。

”これで良いか?”

”はい。大丈夫です”

 突然ひんやりとしはじめて、シレンツィオは肩をすくめた。

”ほどなくここも雪に埋もれるだろう”

”少しは世界の寿命を伸ばしましたよ、シレンツィオさん”

”それはよかった”

 シレンツィオはそう言った後、別のことを思った。

”完全に冷え切る前に昼飯でも食べよう”


 それで、食事をすることになった。冷えていく遺跡での、大急ぎの食事である。

 シレンツィオは松の葉と松の実を取ってきている。それと蕎麦の実である。段々畑のあった場所に、野生化した蕎麦があるのを見つけたのだった。開花時期や結実時期がばらけている蕎麦だからこその採集であったといえるだろう。これが麦ならよほどの幸運に恵まれないと実を採ることはできなかったはずである。

 シレンツィオは皮で作った水袋に松の葉を入れた。

”松の葉なんて何に使うんです?”

”革袋で水が不味くなるだろう”

”風味が移りますもんね”

”あれを松の葉でごまかす”

 松の葉を入れた革袋を良く振りながら、シレンツィオはそんなことを言う。

”なるほど。それでしたら秋津洲でやってるみたいに竹や瓢箪で水筒を作りましょうよ”

”竹はともかく瓢箪とは南方の植物だよな。たしか。そう言えばドワーフには銅で水筒をつくれとか言われたことがあった。試してみたら金属臭がしてダメだったが”

”竹は大丈夫ですよ! ビバ竹”

”そうか。見かけることがあったら使ってみたいものだ”

 古来水の持ち運びほど軍や旅人を悩ますものもない。設置型に限れば陶器という最高のものがあるのでそれで片がつくのだが、こと輸送という話になると壊れやすいために問題が多かった。次点は木の樽なのだが、個人で持ち運ぶのに困る重量を持っていた。

 水を貯める二つの方法が使えない中、この問題については色々な地域で色々な方法が試されてきた。革袋はそういう意味では古来からの伝統的な水の輸送法であったが、当然というか、問題があった。

 長く革袋に入れておくと革の風味が移るのである。ここでいう長くとは、半日とかそういう話であった。当時は二日もすると水が腐り、とても飲めたものではなくなっていた。現代基準で言えば口をつける入れ物から細菌が入って増殖するので分ければいいのだが、当時はここに行き着いていない。革袋の洗浄も不十分であり、口をつけるのも中々勇気のいるものになっている。

 その行き着いていない頃の水の問題の解決法の一つが、松の葉であった。なんのことはない。別の風味でごまかす、である。現代的な観点によると革の味に松の味が混じってとても良いとは思えないのだが、多少は飲める味になるのだった。昔の苦労が忍ばれる。

 シレンツィオは松の葉を入れた水を口に含んだ後、苦い顔をした。松の葉を入れた水は長持ちするとは、アルバでは知られた事実であったが、それと美味には相応の距離がある。

”水場を探すか”

 シレンツィオの言葉に、ボーラが反応した。

”木や草の繁殖を見る限り水場はあると思いますけど、安全かどうかは分かりませんよ?”

”そうだな”

 シレンツィオはため息一つとともに、あきらめた。うまい水は戻ってからの楽しみとした。

 続いてシレンツィオが取り掛かったのは焚き火である。乾いた枝を探してきてそれで火を作るのである。乾いていない枝を使うと大量の煙があがるほか爆ぜることもあり、ひどい目に合う。

 もっとも大量の煙は虫除けになるので、場合によって使い分けた。

 シレンツィオは短剣で枝にいくつもの切れ込みを入れると火に焚べる。火付けは圧縮熱を利用した圧縮着火機スタンプライターという道具を用いる。勢いよく筒の中の空気を圧縮すると、それで熱が発生して綿に火をつける、というものであった。この着火方式は火打ち石式と比べて効率が悪いのだがエルフの国々では一般的であった。これは火打ち石を打ち付ける相手が鉄片であることによる。

 鍋の代わりに樹皮を編む。水を入れている間、これが燃えることはない。これで蕎麦を茹でるのである。

”良いものがあった”

 持ってきたのは松の実である。これを砕いて蕎麦粥に入れる。味付けはオリーブ油と醤油、干した小魚であった。

 涼しいを通り越して寒くなって谷底で、蕎麦粥を食べるのである。

”水が微妙な割にはいいですね。松の実と松の葉でなんだか健康になるような味ですね……どうしました?”

 シレンツィオは顔をしかめている。

”舌が痛い。そして苦い”

”性悪エルフみたいなことを言いますね”

”そうなのか。ではこれは毒か。”

”どうなんでしょう。私は何も感じませんけど。私のほうが体がずっと小さなせいで毒耐性は低いような気がしますけど”

 シレンツィオは考えた後、蕎麦や松の実や松の葉を集めてまわっている。毒が入っているのかどうか、調べるつもりだった。


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