第59話 蕎麦粥
歩きながら先ほど聞いた話を反芻している。
”あまりおいしくないと言っていたのに蕎麦ですか? シレンツィオさん”
”ああ。昼に食べた時に気づかなかっただけで、人間が食べているものと違う種類の蕎麦かもかもしれない”
”どうなんでしょうね。私の受けた感じだと、ごくごく普通の蕎麦だった気がしますけど”
”俺もそう思った。とはいえ、念には念を入れて、だ”
”なるほど。そういえば、アルバでは余り蕎麦を作らないと言ってましたね。違っていたとして、分かるものですか?”
”問題ない。アルバ本国にない、というだけでニアアルバにはある”
そもそもシレンツィオが知行地として与えられた山地も蕎麦の名産地である。もっともシレンツィオはその場所に行った形跡がない。
さておき、話は続く。
”蕎麦というものは救荒作物だ。麦がつくれるならそれにこしたことはない。羽妖精はどうなんだ?”
”羽妖精が労働なんかするわけないじゃないですか。むしろ働いたら負けみたいな”
”その割には空軍とやらを作っていたな”
”ものすごく、仕方なしに、ですね。世界が滅びそうなのでどうしようもなく、です”
”世界が滅びるか”
”はい。北大陸のエルフは最低なんです”
”理由を聞いてもいいのか?”
”お教えしたくありません。教えればシレンツィオさんを巻き込むと思いますから”
”そうか。まあ分かった。俺のやってることがなにやら世界を滅ぼしそうなら教えてくれ”
”精霊魔法によれば、人間が世界を滅ぼす力をつけるまでは最もうまく行ったケースでも数百年はかかると思いますよ”
”そうか”
悪魔の件といい、エルフの敵は多いようだ。シレンツィオはそう結論づけている。
ともあれ、とりあえずは蕎麦である。シレンツィオは休みの日に蕎麦を求めて市場に向かった。
山の中にあるこの都、名をヘキトゥーラという。ヘキトゥ山の都という意味である。
こんな不便きわまる場所に幼年学校や離宮をおくのはいかがなものかと昔から文句を言われているらしいが、まったく動く気配はない。
文句を言われる理由の一つが物価高で、食料品がとにかく高いのだった。食料を生産する場所、すなわち畑を作るのに向いた土地がなく、外から輸送してくるにしても、山の奥であるが故に輸送費が高いのだった。
つまりは大変である。
その大変さの象徴が、市場である。他の地での価格と比べると唖然呆然とする値付けが当然のように行われている。
シレンツィオは麦の価格を見た後、蕎麦は扱ってないのかと店番に尋ねている。
「秋蕎麦ならまだまだありますよ」
「いくらだ」
「これぐらいですねえ」
示された数字にシレンツィオは片眉をあげたが、結局そのまま購入している。
”黒麦なみの値段でしたね”
黒麦は擬態した雑草からはじまったとは、以前書いた。元が雑草というだけあって小麦より安い。七割ほどの価格である。その上で蕎麦は通常、この黒麦の半分ほどの値段である。元雑草よりも安い扱いというところに蕎麦という植物の性格が見て取れる。麦が育てられないような荒れ地でも育てやすく、育成期間も短いのである。ただし収量は少なく脱穀は大変で当時は栄養で麦に劣るとされた。現代の知識で言うと熱量が低いのである。この時代の栄養とはもっぱら熱量のことであった。本邦でも五〇年前までは同様である。
このような食物であるから地方によっては価格がつかないというか取引を断られることも多い。ちなみにこの時代のアルバ、ニアアルバでは雑穀にすら含まれず、課税対象外である。蕎麦は救荒作物扱いであり、これにも課金するとなると大規模な住民反乱が予想されたのである。麦に対する課税代行も行う粉挽き屋が蕎麦の扱いを拒否するのは、これが理由であった。
その蕎麦を、高い金を出して買っている。
”なんだかひどく損をしたような気がしますね”
ボーラの感想に、シレンツィオはかぶりをふった。
”あんなものだろう。結局、価格のほとんどはここまで担いで持ってくる輸送費用だからな”
なにせ馬も入れないような場所である。シレンツィオの見立てでは、等しく輸送費を上乗せすると、このような価格になってもおかしくなかった。
麦を買い付けて袋を担ぐ。手に入れたのはすでに脱穀してあるものだった。麦も蕎麦も脱穀した瞬間から味が落ちていくのであまり良くはないのだが、殻付きだと重くなり、さらに価格があがるためにこのようにしたのであろう。
持ち帰り、粥にしてみる。
”アルバ風の蕎麦粥ですか”
”ああ”
まずは、鍋で乾煎りする。焦がさぬようによく揺らし、蕎麦の匂いが立って部屋いっぱいに広がるくらいになったら、一度蕎麦を鍋から下ろして、今度は牛乳を入れる。蕎麦の実の六倍の杯を入れる。この時代、料理用の秤がないので器に入れて何杯、という数え方で料理をする。煮立たせぬようにしながら、蕎麦と適量の塩と砂糖を入れていく。水気がなくなったら、上に乾酪、または牛酪を乗せる。アルバセリを散らすこともある。
”飢饉のときは牛乳ではなく水で作るが、だいたいはこんなもんだ”
”蕎麦に牛乳って、秋津洲ではまったくみない組み合わせですねえ。でも香りは完全に蕎麦ですね。いい匂い”
”そうか”
シレンツィオとボーラは並んで食べた。
”蕎麦だな”
”蕎麦ですね”
他に言いようがなく、まずくはないが、ごちそうという感じでもない。この料理はむしろ毎日食べられる飽きのこなさにこそ価値がある。一様に貧しいという背景はあれど、これこそが故郷の味、という地域もそれなりにある。
”しかし、舌が痺れるようなことはないな。ボーラはどうだ”
”そういうことはないですね。この価格だったら手間を考えて黒麦のパンでいいとは思いましたが”
”そうだな。しかし子供たちは舌が痺れるという”
”子供が野菜きらいとかは良くある話ですよ。シレンツィオさん”
”そうなんだろうがな”
テティスやマクアディたちに食べさせて実験してみたいが、明らかにいやそうな顔をするので実施できない。
”ところでシレンツィオさん。蕎麦の実が大量に余ってますけど、どうするんです?”
”もちろん食べる”
”私とシレンツィオさんだけだと、消費にどれくらいかかるか分からないくらいありますよ。四五kgくらいありますよね。これ”
四五kgとは人間の感覚ではなんとも中途半端だが、エルフの度量衡では女一人分の重さとして、一般的な大袋の重さになっている。
”そうだな。何、蕎麦の調理法は色々ある。飽きずに食えるだろう”
”はーい”
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