第57話 パンの代わり
シレンツィオは表情を変えずに歩いた。歩いた先は小さな友人であるマクアディ・ソンフランの部屋で、シレンツィオは蕎麦を教えてくれた礼を言いに向かっている。
”律儀ですねえ”
”そうか”
襟が、少し揺れた。
”ところでですね。あの人間になりきったつもりの獣人の密偵についてですが”
”ピッセロか。それが?”
”それの雇い主が、シレンツィオさんを連れ戻すとか言ってましたよね”
”無理だろう”
”えぇ? そうですか? すくなくともあの獣人は本気で言ってましたけど”
”元老院が出した二年という年限は覆すのが難しい。たとえ元老院の議員その人であってもな”
”緊急事態かもしれませんよ? また戦争が起きたとか”
”それもないな”
”なんで言い切れるんです?”
”エルフという生き物は中々増えない”
”ああ。北大陸のエルフは自然交配してますもんね。まったく北大陸のエルフときたら……”
長々と文句を言いそうになって、ボーラは不意に話題を思い出した。
”じゃなくて、エルフ口が中々増えないのがなんで戦争再開の話になるんです?”
”人間とエルフの損害はまあ、人間二の損害でエルフが一というところだ”
”かなり善戦してますね?”
”最初の方は一〇〇対一だったな。戦いが長引くうちに人間も学んだ。それに連中は鉄が使えないからな”
”それって重要です?”
”重要だ。武器の生産量が桁外れに変わってくる。そしてエルフは人的損害を中々補充できない”
”あー。一人育てるのに北大陸でも六〇年はかかりますもんね”
”そういうことだ。損害比が四対一あたりになって、互角、今じゃこっちが優勢というわけだな”
”人間のほうが損害を受けているのに勝っているのが不思議な感じですね。精霊魔法的には正しい気がしますけど”
”事実は事実だ。エルフというかニクニッスが何をするにせよ、すぐの戦争は無理だろう”
だからこその、シレンツィオの大艦長引退である。この時期に交代して次代を育てないと、高齢すぎるシレンツィオや、若すぎるシレンツィオの後任という布陣でエルフたちと戦うことになる。今なら実践経験豊富な若手がいるのである。これを出世させるほうがよいと判断したわけである。
これらは数十年後に起きるかもしれない次の戦いを見据えての判断であり、アルバ元老院は当時激しい突き上げを食らっていたが、言われるほど無能ではなかったことを示している。彼女たちがケチをつけられるところと言えば、文字通りケチでシレンツィオに貧しい男爵領を与えたところに尽きるであろう。
シレンツィオの説明を聞いて、ボーラは腑に落ちない顔で頷いた。
”なる、ほど”
”それで戦争はない。というわけだ。俺を呼び戻す大義名分はない”
つまり自由、というわけである。シレンツィオは故国に帰る気は毛頭ないようであった。薄情というよりも、生まれてこの方日数にして一〇〇日と故国の土を踏んだことがないのだから、致し方ないといえる。
その様子を見て、襟が揺れる。ボーラは姿を見せると滞空しながらあぐらをかいて腕を組むという荒業を見せた。
”私としてはシレンツィオさんが不当な扱いを受けていることが悔しいんですけど”
”そうか。いや、お前の任務的には俺が不当な扱いを受けている方がいいんじゃないか”
”そうなんですけど! 私の立場はおいといて、シレンツィオさんに元老院が詫びるのなら、一度アルバに戻ってもいいんじゃないですか?”
シレンツィオはボーラと交わした約束を思い出して考えた。
”帰りたくなったのなら、いつでも戻してやる”
”今の私はシレンツィオさんの襟が家なんで”
”そうか。だがまあ、詫びるもなにも、だろうな。一応形では栄転だ。女からすると貴族というのは価値あるものらしい。それに俺は興味ないが、政治というものは謝ってすむようなものではない。俺を追い出しておいて呼び戻すとなれば、元老院とて無事ではすまんだろう”
”数名首が飛びますか”
”最悪国のありようが変わる”
”そこまで?”
”まあ、興味がないからどうでもいい”
”政治は暴力である。暴力から目を離してはいけないと言いますよ?”
”船乗りが陸のことを気にしだしたら、その国は終わりだ、とも言うな”
”なるほど、まあいいんですけどね、私はシレンツィオさんが、私のことを気にしてくれればそれでいいです”
シレンツィオはボーラだけが分かるほどに微笑んでいる。余人は誰もその表情変化に気づかなかったが。
(3)
それで、シレンツィオはマクアディ・ソンフランの部屋にいる。
マクアディは腹を空かせて釣床の上で寝そべっていたが、シレンツィオの姿を見て身を起こした。
「シレンツィオは蕎麦食べたの?」
「食べたが、俺の作る方がうまい」
そう答えたところ、マクアディはまた倒れた。
「あー。ハム食べたい」
「突然どうした」
「前にシレンツィオが焼いてたハムを思い出して腹が、もうダメだ」
”前に銀髪エルフに襲われたときのあれですよ”
”あぁ”
ボーラがテレパスを使用して出した助け舟に乗るシレンツィオ。そう言えばそういうこともあった。
「昼は食わなかったのか」
「うちは貧乏騎士の家だからさ。食堂が頼りなんだよ」
「なるほど」
見ればマクアディだけでなくて同室の子どもたちも同様であった。シレンツィオは肩を回した。
「食うか。ハム」
「うん! あ、でも俺お金持ってない」
「この部屋はみんな俺の奢りだ」
大歓声である。
”臨時収入があったからってシレンツィオさん……”
”これくらいはいいだろう”
それでシレンツィオはハムを焼いている。串に刺して直火でじっくり焼くのである。ついでにパンのかわりも作った。
パンの代わりとは、適当な訳語がない。アルバ語ではパーネデポヴェロという。
沸騰した三杯のお湯の中に砂糖、オリーブ油、小麦粉を二杯入れて練って、さらに小麦を一杯入れて練る。伸ばして短剣で切り分けたら伸ばして具を入れる。シレンツィオは胡椒、乾酪とクマネギを入れて包むと、鍋いっぱいの湯で煮ている。
「天火(ルビ:オーブン)でじっくり焼いてもうまいんだが、天火は貴族用の部屋以外ないからな」
「もうダメだ。匂いだけで腹減った」
シレンツィオは湯から上げると大皿に貧乏人のパンを積み上げ、上に塩をふりかけた。この様をかぶりつくように見るマクアディたち欠食児童。目は完全に血走っている。
「いいぞ」
言い終わる前に手を伸ばして熱いと大騒ぎするまでが一繋がりである。
「ふま、ボフッ」
”翻訳しますと、うま、はふっですね。シレンツィオさん”
”そうか”
串は鉄なので気をつけてシレンツィオはハムを選り分けている。これもまた、一瞬で消えた。
食事中一切の会話はなかった。ただ、熱い熱いと言いながら食べる、湯気を口から出して食べるのである。
「うんめえ!」
食べ終わった後で、マクアディが言った。それ以外の子はどうかと言えば、空になった皿をうらめしそうに見る程度には満足のいくものであった。
”今頃美味しいとか、随分遅い反応ですね。シレンツィオさん”
”いいんじゃないか。あれぐらい熱心に食べているんだ。美味かったのは間違いなかろう”
シレンツィオ自身も食い足りなかったのかハムを食べている。
”それはそうですね”
「ありがとう。シレンツィオ。俺、偉くなったらこれの三倍シレンツィオに食べさせるから」
マクアディが言うと、俺も、俺もと同室の子が言った。シレンツィオは表情を変えずに、銅の鍋を洗っている。
「気にするな。いや、そうだな。俺に礼をするつもりで一つ覚えておけ。細かいことを気にするようなやつに貸しは作るな」
”シレンツィオさんの優しさは分かりにくいですね。まあ私はそれでいいんですけど”
”たんなる忠告だ”
マクアディは大いに頷いたあと、口を開いている。
「うん。ありがとう。でも俺、本気だから!」
「そうか」
大げさだなとシレンツィオは思うが、少年の一途さは、そういうものだという気もする。それで、話題を変えることにした。ハムの話で思い出したことがあったのである。
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