精霊と妖精
第46話(第二章) 山菜
(1)
朝日が上がる前に人は活動を始めるが、冬に限ってはそうでもなかった。体温を奪われぬため、あるいは無駄に腹を減らさぬため、多少遅く起きる。それは海の上ではついぞなかったことであり、余人はどうあれ、たいそう面白かった。
しばし、平和な時が続く。冬は終わり、山深い幼年学校にも春の兆しが見え始めた。
この時代の春、という言葉は、現代と比べてずっと重い。体を温める燃料と体を温める燃料としての食料、両方の重い負担から解放されるからである。
冬の間、庶民は負担を少しでも減らそうと家に閉じこもり、これは軍でも学校でも同じであった。
それが、終わった。まだまだ寒いが外にでて日差しを浴び、そのありがたさに感謝する、そんな日々が始まったのである。
エルフの幼年学校に通う人間の中年、シレンツィオ・アガタも、春の訪れを実に喜んでいた。
”食い物が増えるな”
”わーい”
返事をしたのは彼の嫁を自称する羽妖精、ボーラである。実のところこのあたりからボーラ・アガタを名乗るのだが、シレンツィオが承認をしていないので、あくまで自称であった。
”それでどうするんですか? 食料探しに下山します?”
”いや、上にいくぞ”
まだ雪が残る山に入るのである。
”え、シレンツィオさん大丈夫なんですか。春の雪山は危ないといいません?”
”雪崩に熊と言うな”
シレンツィオの家の前を飛んで、ボーラは小首をかしげた。
”でも行くんですね”
”いい加減、干した肉や干した野菜に飽き飽きだ。それぐらいなら少々命の危険があってもよかろう”
当時としては、さほどおかしな感覚ではない。だからボーラも、強く止めはしなかった。
”はーい。でも危なそうだったら引っ張ってでも帰りますから”
羽妖精の背は三〇cmほどしかない。二m近い背を持つシレンツィオを引っ張るなど到底できそうもなかったが、シレンツィオは少しだけ笑って、そうかと返しただけであった。
遅れてボーラがついていく。
”今笑いましたね、シレンツィオさん”
”笑ったな”
”いい傾向です。でも私以外にはその笑顔を見せないほうがいいです”
”なぜ?”
”シレンツィオさんが案外幼く見えるから”
それは理由になるのかとシレンツィオは思ったが、すぐに意識を切り替えた。長靴に鋲を打って、襟の長い黒い外套を着て歩き出すのである。食い物を入れるための袋もあった。
”それでシレンツィオさんは何を狙うんですか”
”若芽だな”
”山菜ですね! イントラシアで良く食べていました!”
”春だけはあの苦味もうまい”
苦味を上回るほどの栄養がある、というわけである。現代においては、想像も難しいが当時は冬の間に、栄養に極度の偏りがでていた。現代の知識で語るならばビタミン欠乏である。体がビタミンを欲すがゆえに、山菜はうまい、というわけであった。冬でも栄養に偏りがでないために、苦みの中から必死に旨さを感じ取らなければいけない現代とは違うのである。
降った後溶けては凍りを繰り返し、すっかり固く、目の荒い感じになった雪を踏みながら獣道を進む。
雪割りで生えている若芽を見つけては短剣で切って袋に入れる。一度や二度ならまた生えてくるから、根までは取らぬ。これも知恵である。
春の兆しは地面だけでなく、木の又から新芽や花芽がでているものがあった。これも食べられそうなものは取っていくのである。
木の肌についた傷を見て、シレンツィオは少し微笑んだ。
”鹿がいるな”
”こんな高さにもいるんですね”
”それもそうか。ではこれは鹿ではないのか”
斜面を歩くことしばし、答え合わせの時がくる。切り立った崖を登る冬毛のカモシカがいた。
”あれは捕れませんねえ。捕りませんよね? ものすごい斜面ですし”
”とらんな。子連れだ”
シレンツィオは目を細めてそう言った後、興味をなくして背を向けている。ボーラは嬉しそうに、シレンツィオの周囲を飛んで回った。
”心優しいシレンツィオさんが好きです”
”地方によっては狙って子鹿をとるそうだがな”
”それは増えすぎたときですよ。食べるものがなくなると鹿は樹皮を食べちゃうからですね。そういうのは天敵である狼がいなくて異常繁殖した地域だと思います。例えば、このルース王国とか。全くエルフは糞なんです”
”人間も似たりよったりだ。狼は農地の邪魔になる”
言外にエルフも人間も差がないと言ったが、ボーラには伝わってないようだった。
”自然破壊は、安易にやっちゃだめなんです”
”そうだな。スキュラもそんなことを言っていた”
急にボーラの目つきが悪くなった。
”昔の恋人ですか。だとしたら〇点ですよ、シレンツィオさん。〇点です”
”スキュラというものは毎夜恋人を変えるものだ。俺のことなんて覚えられてもいないだろう。そう言えば、なんとか多様性がどうとか言っていた”
”遺伝子多様性ですね。それはそれでダメなスキュラですね。人間やエルフに教えるべき知識ではありません”
”そういうものか”
”はい”
シレンツィオはそれ以上になんの反応もしない。スキュラの事情も都合も特に興味なかったし、羽妖精に対してもそうであった。他人への興味に乏しいというよりも、自分本位なのである。
ちなみにスキュラというのは今は絶滅した我ら以外の人間の一種で強力な催眠能力を持ち、それらを使用していくつもの海の生き物を侍らせている女性しかいない種族である。ときに強調して描くあまりに絵図だと下半身が蛸だのイルカだのになっていることがある。今も生きている人魚とは別の種である。
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