第44話 パネトーネとエンディングに替えて

 そして、新年と新学期の浮かれた気分がようやく去った頃、朝の一時である。

 前日からの雪は止んで、この日は少しだけ寒さも和らいでいた。とはいえ、夏でも気温一九度というこの学校である。新年を過ぎて少しであれば氷点下をかなり下回っていたのは間違いない。

 木戸を開ければ寒い風とともに、雪で白く輝く中庭が見えた。寒いので閉め切りたいところだが、この時代ではそうもいかぬ。換気に明り取りと、どうしても窓を開ける必要があったのである。

「いよいよですね。おじさま」

”何がいよいよなんです? シレンツィオさん”

 シレンツィオは鶏卵の白身を泡立てていたが、その手を止めて抱きついているテティスの言葉を考える。心当たりがなかった。

「何があった」

「お菓子です。いい匂いの」

”あー! ありましたね! そうだ、一週間、一週間ですよシレンツィオさん!”

 ボーラは嬉しそうに翔んでとんぼ返りをしている。

「パネトーネか。そうか。そろそろだな」

 シレンツィオは棚にしまってあった砂糖で白い雪をちらしたかのようなパネトーネを取り出した。カビも生えておらず、良い状態であった。

 まな板の上に出すと歓声が上がって、すぐに尻すぼみになった。

「どうした」

”匂いが”

「消えてしまっています」

 しょげる一妖精と一エルフを見て、シレンツィオは表情を変えなかった。

「華やかな香りの菓子はまた別に用意するとしてだ。これも悪くないぞ、食ってみろ」

 パネトーネは本来新年前に作って少しづつ食べるお菓子なのだが、今回はそういうこともない。シレンツィオは上に泡立てた鶏卵の白身と凝乳を混ぜて冷やし、それを切り分けたパネトーネの上にかけている。

 子供たちの口が乾かぬよう、という配慮である。ついでにいうと果物は酒につけたものを使うのだが、シレンツィオはその量を控えめにしてある。

 シレンツィオの料理用ナイフの切れ味は非常によく、薄切りされたパネトーネの断面は色とりどりの果物のせいで美しく、その上に白い塊が乗る。

「宝石箱みたいです」

”ぶっぶーですよ。ぶっぶー。シレンツィオさん、今若干優しい顔をしていました”

”こら邪悪妖精。おじさまが私に優しい顔をすることの、何が問題だというのです”

”は? シレンツィオさんの笑顔は私の独占物ですがなにか”

”契約書がないので無効です”

”なんで契約書がないことに気づいたんですか!”

「にゃーは、これすぅです」

 テレパスで言い争うテティスとボーラをよそに、ガットはパネトーネを一切れ食べている。中に入る木の実が口の中で割れる音を聞いて言い争いが、止んだ。

「まあ、食べてみましょう」

”そうですね”

 パネトーネは、大量の牛酪を練り込んだ生地の甘みとコクに、乾燥果物や木の実の風味が絶妙に混ざって落ち着きながらも高い一体感のある味だった。酒につけていた果物が香り立ち、変化をつける。上に乗せた凝乳と鶏卵の白身の冷菓子が口の中の乾きを癒やし、またパネトーネを新鮮な気分で味わうことができるようになっていた。

 ボーラとテティスとガットが並んでうまーと、している姿を見て、シレンツィオは喜んでいる。表情的にはあまり変わっていなかったが。その後で自分も食べて、うまーとなった。



○エンディングに替えて 〜一方その頃〜


 シレンツィオがうまーしている一方その頃、アルバ国元老院は大紛糾していた。

 国民がシレンツィオをなぜ敵地に追いやったのかと、元老院の建物の前まで集まって怒りの赴くまま集会を開く状況である。アルバ国は船の来航が多く、庶民も他国と比べればたくさんの情報を得る立場にあったが、エルフはエルフとしてニクニッスもリアンもルース王国も一緒くたの扱いであった。あくまで友邦国に留学させたという事情は、国民にまでは伝わっていない。

「あ、アルバの種馬め……」

 多くの元老院議員の女性たちが、そう言ってうめいた。彼女たちは自国の貴族学校ではシレンツィオが無双して数年後にはシレンツィオの子供ばかりで元老院が構成されてしまうと言って留学を決めたものたちであった。

「バカばっかり」

 そう言って呟いたのは若干十一歳にしてアルバ国元老院の議員、ルクレツィア・ウリナである。ウリナとは尿のことであり、糞尿を集めて大きな財を成したウリナ家の現当主であった。財こそ爵位であるアルバにおいて侯爵を名乗る大権勢家である。眉目秀麗、鼻立ちは揃って、黒髪と言うには無理があるわずかに明るいアルバ髪を持つ、見目麗しいのはもちろんのこと、当時神童の名をほしいままにした頭脳明晰な少女であった。

 彼女こそはシレンツィオのいう古い友人である。同時に、本人は生まれてこの方ずっとシレンツィオとは恋人だったと自称する。

 ルクレツィアは窓の外の港を見て、シレンツィオを思う。周囲が注目する中ため息一つをついて、元老院の議員たちを見た。

「バカばっかりと、言っているのです。あなたたちはシレンツィオ・アガタという男のことを何も分かっていない」

 ルクレツィアは立ち上がって青みの掛かった瞳を怒りに震わせた。

「だから反対したのです。あの男を留学させるのは野獣を野に放ったも同じ。今頃エルフの美姫たちを両肩にしなだれかけさせて、強い酒をかっくらってうぃーとか言っているに違いありません」

 私怨が入ってませんかという他の元老の言葉をルクレツィアは視線一つで黙らせた。

「私には分かります。シレンツィオは政治に興味がない。だからこそ、政治がどれだけ混乱しても、気にしたりはしない」

 これは随分と一方的な意見であるが、現実問題、窓の下では怒る国民がアルバの英雄を帰せと大騒ぎしている。

 一人の議員が、小さく意見を言った。

「でも、アルバは母国ですよ。さすがの種馬も配慮の一つや二つくらいは……」

「外の様子を御覧なさい。それと、母らしいことをしない母を、子が敬うと思うのは愚かです」

 当時の元老院議員は女性しかいない。この言葉は多くの議員にとって耳の痛い言葉だった。それ故の強い説得力がある。

 ルクレツィアは自分の年相応に細い腕を隠す大きな袖を振った。

「私には分かります。今、手を打たねばシレンツィオはエルフ女に操られて我が国に反旗を翻します。昔から目の前の女には甘いのです」

「ご安心ください。シレンツィオ様は私が呼び戻しましょう」

 そう反論したのはニアアルバの属州総督、若葉フォジジョヴァである。ルクレツィアは敵を見る眼で若葉を見ると、すぐに冷静になり、口を開いた。

「ことはもはや属州総督だけの話ではないのです。私自らが出ます!」

 大事故である。

 シレンツィオの近辺が落ち着くまで、まだ幾ばくかの時間がかかる。


(了)

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