第43話 それからしばしの時が流れ

(10)


 それからしばし、慌ただしく時間が過ぎる。

 薄い本の少女に背中が見えるほどのお礼を言われ、シレンツィオは軽く手を振った。

「気にするな」

「でも……女好きなんですよね」

「それはそうなんだがな。……これくらいで口説くつもりはない」

 襟が激しくカンフーしているの上に冷気まで感じながら、シレンツィオはそう言った。

 その件で思いついたのか、シレンツィオは士官学校に行く前に、エルフ語の習得のために幼年学校に一時籍を置いたと言うことにするのはどうだとエムアティに提案し、その方向で話をまとめている。リアン国に対するアルバ国とルース王国の非難の前提が崩れて、多少の連絡不行き届きが問題であったという、そういう形の決着である。

 なにせ本人がそう言っているのであるからアルバ国は引き下がるしかなく、ルース王国も本気でリアン国と事を構えることまでは考えていなかった。

 後、ルース王国が滅んでしまうため資料としてははっきり残されていないのであるが、エンラン伯爵家の借金の利払いが数年停止されたようである。

 そもそも、ルース王国としては悪魔の件がある。シレンツィオの扱いで長引けばまた別の問題まで発生すると考えたのであろう。速やかな幕引きが図られた、という状況である。

 この件に協力したことで、シレンツィオにもささやかな報酬があった。一つにルース王国が悪魔退治の報奨金を出したことである。また特権として、試験時以外で生涯、羽妖精を帯同することが許された。それともう一つ。シレンツィオは体育が苦手な子供たちの面倒を見る約束を取り付けている。また半年の落第猶予期間も勝ち取った。

「おじさま、そんなことを褒美にして、どうするのすか」

”そうですよー。もっとお金要求すればよかったんじゃないですか?”

 そういう声に、シレンツィオは胸を張って言っている。

「俺の心が満足すればそれが褒美だ」

 人生を楽しんでいる者の言葉だろう。なお、その後に金は墓場まで持っていけないとアルバ商人のことわざを口にしているが、この言葉は大変に不評であったという。

”それだから捨て鉢なんです。約束したじゃないですか!”

「おじさまが悲しいことを言うと死にたくなります」

 ボーラとテティスにそう言われ、シレンツィオは困っている。

”別に縁起の悪い話ってわけでもないのだが”

”信じません”

”こうとも言う。細かいことに気を使うと損をする。商人の言い伝えだ”

 ボーラはシレンツィオの顔に翔んで寄ると、口を開いた。

「シレンツィオさんの事は細かくありません。これは呪いです。自覚してください」

 大事なことを語る時、羽妖精は口を使うのだなとシレンツィオは理解した。そしてそれは、呪いというものらしい。鉄が使える、すなわち血に魔力がないシレンツィオには一切効果がなかったが。

 種族や文化の違いというものは、中々乗り越えられぬようである。

 翌日になるとシレンツィオは、体育成績不良者の成績を向上するために、大量の料理を作っている。

 大きな銅板の上で、大量の牛肉を焼くのである。校庭に美味そうな匂いが漂って、その前に座った成績不良者たちが、自分たちは何を見せられているのかと、呆然とした。

「まずは肉を食って歩く。そこからだ」

 体育着姿のマクアディが、控えめに手をあげた。

「そんなことで身体鍛えられるの?」

「まずはそこからだと言ったぞ。その次もその次の次もある。だがまずは肉だ。身体は食ったもので出来ている」

 シレンツィオから見ると体育成績不良者の殆どは親の財政状況が乏しかった。食うものを変えれば変わっていくだろうという読みである。シレンツィオはこれにルース王国から出た報酬の全部を使っている。

「俺が俺になるまでには長い時間が掛かった。時間を無視するな。積み重ねを軽視するな」

 千里の道も一歩からというが、北大陸ではシレンツィオまでは歩いていけるという言葉が残る。意味は同じである。

 半信半疑ながら歩きだした子供たちを見るシレンツィオの横に、エルフのほっそりした姿が立った。

「あなたには助けられてばっかりね」

 足元がおぼつかないエムアティを抱き支え、シレンツィオは何のことかわからないと、かぶりを振った。

「悪魔のことですよ」

「ああ、気になさらないでも」

 シレンツィオがそう言うと、エムアティは少し迷って、結局は口を開いた。

「聞き取り調査によると、ここに来たかいがあった。と言っていたわね。あれは……どういう意味かしら」

「特に深い意味はありません」

「そう……でも軍の一部の人は、そう思ってないわ。シレンツィオ・アガタは、アルバの密命を帯びてここにきた。何らかの方法で情報を得て、悪魔と戦うために来たのではないかと」

 シレンツィオは何も答えていない。エムアティは苦笑を浮かべると、言葉を続けた。

「昔、我々が独立する前、古代人はエルフを率いて悪魔と戦ったという記録があったから。まあ、そうね。仮になにかあっても、言うわけにはいかないでしょうね。そこはわたしたちと、同じ……」

 エムアティは表情を改めて、神妙になった。

「悪魔の出現した魔法陣については調査が開始されていますが、その情報はシレンツィオくんに明かされることはないでしょう」

「そうか」

「ごめんなさい」

「あなたが気にするようなことではない」

 マクアディと一緒に走っている中に銀髪のエルフがいる。魔法は甘えだと言いながら闇雲に走っていた。

 お前は生徒じゃないだろうとシレンツィオは思ったが、何も言わなかった。エムアティは笑ってシレンツィオを抱きしめている。

「ですが、感謝の心はここに」

「気にすることはない。あなたには良くしてもらった」

”じとー”

”これはそういうのではないと思うぞ”

”気にすることはない。あたりで優しさの微粒子を感じて嫌です”

 ボーラはシレンツィオの声真似をして、シレンツィオを微笑ませている。

”ところで実際はどうなんですか、アルバから秘密指令なんてあったんです?”

”そんなものはない。運が良かったというべきだな”

”ふうん。じゃあ、おばあちゃんの心の負担を減らすために、含みをもたせたんですね。シレンツィオさん”

”単に面倒くさかっただけだ”

”今回はそういうことにしておいてあげます。私は寛大な女ですから。でも、運がいいのはどうかと思いますよ?”

”そうか?”

”う……うう? なんでそこで優しさの微粒子出てるんです? 私ですか、私と出会えたからとかそういうやつですか?”

 シレンツィオが返事をする前にガットが背中に飛び乗るように抱きついてきた。邪魔に成功したとして、すまし顔のテティスが遅れて抱きついてくる。

「私のことですよね。おじさま」

 シレンツィオがどんな返事をしたのかは記録に残っていない。

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