第37話 パネトーネ
”まあ。風が来んことには始まらん。今は日持ちする食料を用意しとくか”
”脱出に備えるわけですね! わーい保存食を作りましょう!”
この時代、保存食は塩漬け(塩蔵)か燻製か乾燥させるかしかない。例えば砂糖漬けや油漬けでも保存はできるのだが、砂糖も油も価格が高かった。地域によっては塩も高い。そうなると燻製と乾燥物ばかりが食卓にあがる。
”甘い保存食があったらなあ”
”作るか”
”え、そんなのあるんですか”
”あるかないかで言えばある。ただまあ、持って一月だがな”
シレンツィオはテティスの部屋に向かっている。自室には天火がないのである。父の手紙を何度も大事そうに読んでいるテティスに許可を得て、シレンツィオは料理を作り始めている。ガットが大きな手袋をつけて手伝うことになった。猫の肉球に似せてあって中々可愛らしい。
まずは、天火を予熱しつつ、たっぷりの牛酪に砂糖、塩少し、牛乳を少し。それで小麦粉を練る。そして練る。パン種を入れて更に練る。まとまってきたら具材を入れる。乾燥させた木の実に酒に漬けた果実や乾燥させた果物を入れる。そして練る。また木の実と乾燥果物を入れて練る。具材がなくなるまでこれを繰り返し、まんべんなく具材が生地に混ざったら、椀に入れて整形する。そうしてできた生地を天火にかけて四〇分。焼けたそれに溶かし牛酪を刷毛で塗りつけ、砂糖をまぶすのである。
こうしてできたものが北アルバで食されるパネトーネと呼ばれる菓子である。パネトーネには本来溶かし牛酪と砂糖まぶしは行わないのであるが、シレンツィオは羽妖精のために、これを行った。
溶けた牛酪の匂いと砂糖の香りが、腹を撃った。
”わー、美味しそうです!”
「すぐ食器を準備しますね」
羽妖精とテティスが姉妹のような連携で動こうとするのを、シレンツィオは止めた。
「残念だが、これを美味く食べるには時間をおかないといけない」
テティスの笑顔が凍った。
「ど、どれくらいでしょう」
「まあ一週間だな」
シレンツィオの言葉に羽妖精とテティスが並んで倒れた。気が遠くなったようである。ガットは肉のほうがいいのか、あまり反応しなかった。
羽妖精が、じたばたした。
”ひ、酷いですよシレンツィオさん!”
”保存食だと言ったろう”
”そうですけど! 匂いが! 匂いが!”
”代わりのものを作るから”
”わーい。シレンツィオさん大好きです”
「おじさまは優しい人だって知ってました」
現金なやつらだと思いつつ、シレンツィオは笑顔になっている。もとより料理を褒められるのは悪い気がしない。
シレンツィオが取り出したのは茹でで冷ました栗である。これを一〇個ばかりと、小麦粉、牛酪、牛乳である。栗を潰して皆を混ぜ、生地にして薄く焼くのである。
焼くのにも牛酪を使うが焼いた後、上にも牛酪を乗せる。牛酪を包むようにまとめたら完成である。好みで半乾酪を乗せる。ガット用には腸詰めをつけた。ガットは大喜びでにゃー、にゃーと言った。
羽妖精とテティスは復活して目を輝かせた。
「おいしいです! おじさま」
”栗が、いい仕事してますねえ。はーんー幸せのあじー”
三人と一妖精がうまーと、食べていると、遠くで爆発音がした。全員で顔を見合わせる。
”どこかの国が仕掛けて来ましたかねえ。シレンツィオさん?”
”どうかな。今は昼だ”
「リアン国は武力についてはさほどでもありません。せいぜい、夜におじさまを襲って連れ去るくらいだと思いますけど」
さすがは貴族の娘だけあって、テティスは荒事では動じていない。恐れることもしていないようである。ガットの方が反応して腸詰めを一息で食べて周囲を見回している。警戒しているのであろう。
シレンツィオは少し考えた。
「思うに、テティスを攻撃することはないと思うが」
「はい。おじさま。私というよりも、エンラン伯爵家やルース王国とことを構えることは考えにくいと思います」
「ということは、落ち着いて食事くらいはできるだろう」
”シレンツィオさん、火事だったらどうするんですか”
”何もしないとは言ってない。俺はちょっと見てくる”
”私はついていきますからね”
「私もついていきます」
「にゃーもいきます」
シレンツィオは軽くため息をついたあと、では急いで食べようと言った。自分のつくったものを残すという選択がないのだった。
慌ててうまーしたあと、シレンツィオはテティスの部屋にも縄で罠を仕掛けた。一応の用心である。
廊下の外に出ると、大騒ぎであった。爆発だ、などと野次馬が一方の方へ向かっており、シレンツィオたちはすぐに部屋に戻っている。
「いいのですか、行かなくても」
「陽動である可能性もあるし、そうでないとすれば、野次馬にまじるのもいい考えとは思えん」
「なるほど。おじさまはこういうのに慣れているんですね」
「慣れたらつまらんものだ。たまにでいい」
”シレンツィオさん。シレンツィオさんの部屋の罠が起動したみたいです。悲鳴みたいな思いが聞こえます”
”そうか”
「大丈夫なのですか。おじさま」
「貴重品は身につけている」
”私ですね”
”そうだな”
羽妖精は得意満面、テティスの前で踊っている。テティスは両手でばちんとやって羽妖精を叩き落とそうとした。
「この!」
”シレンツィオさん。見ました!? 今の渾身のざまあ顔”
テティスは泣きそうになったあと、シレンツィオに抱きついた。
「私も貴重品ですよね?」
「泣くな。美人が台無しだぞ」
”私も泣いていいでしょうか”
「おじさまはこんな悪趣味羽妖精と一刻も早く縁を切るべきです」
「お前たちといると飽きないでいいが、はて。襲撃か」
”シレンツィオさん心当たりはありませんか”
”女の恨みを買ったことはないが……”
”男の人はどうです?”
”男がどう思おうと俺は気にしない。数えたこともない”
”で・す・よ・ね”
”褒めんでいいぞ”
”褒めるかーい”
シレンツィオは表情をわずかに緩めるとテティスを抱き上げ、ガットを背に捕まらせた。
「火事だったことのことも考えて一度外に出るぞ」
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