第36話 進級と尿買い

 さて進級試験であるが、もとより得意だった数学以外もエルフ語で満点を出した。無双である。九歳相当の問題ではあるが。

 同様に試験に合格したテティスは不思議そうに口を開いている。

「おじさま、どうやってエルフ語を勉強したのですか」

「エルフ語は理路整然として変化も規則正しい。外国人から見ると覚えるのは簡単な部類だ」

 これは俗エルフ語という北大陸のエルフ語が後になって作られた人造言語だからである。時代の変遷による変化が少なく、例えば流行の言い回しが根付いてこの言葉のみ語尾変化が異なる、といった言語にありがちな例外があまり見られなかったからであった。シレンツィオは知らない単語や言い回しでも推測して回答することができたのである。

”アルバ語みたいに古代語から変化を繰り返したものと比べるとわかりやすいですよね”

”覚えやすい国の言葉は大帝国を築く。ということなんだろうな”

 羽妖精のテレパスにシレンツィオはそう返した。

「おじさま、三年次からは魔法の基礎が始まりますよ」

「そうか、それは楽しみだな」

”使えないのに?”

”それがどうしたんだ”

 羽妖精の言葉をものともしないシレンツィオである。襟が、揺れた。

”こう、なんというか、シレンツィオさんがそういう人だってことはよく分かっているんですけど、無駄なことを覚えているような気がしません?”

”無駄とは値付けができなかった商人の負け惜しみだ”

”値付けですか”

”そうだ。商人とは畢竟値付けをする仕事だからな”

”はあ”

”俺の国に尿を買い取る業者がいてな”

”なんかもう想像の枠外ですね”

”肥料に洗濯に、最近だと火薬と、あれこれ使うわけだ。今の元老院の筆頭の家がそれだな。かの家は尿を値付けして金儲けができたわけだ”

 シレンツィオは遠い故郷にいる誰かを思い出して少し微笑んだ。

”大金持ちや成功者の成功譚を前にすれば、無駄という言葉がどれだけ負け惜しみなのかはよく分かるようになっている。もちろん、成功者としてはこういうのを積極的に教えたりはせんがな。むしろよくできた成功者ほど自分の部下には無駄を減らせというものだ”

”なんでです?”

”成功されたら困るからだな”

”なるほど。よく分かります。邪悪ですね”

”そうかもな”

 テティスは一緒に歩きながらシレンツィオの手を握った。その権能のせいで実の母親とも手を繋げない立場だったのだが、シレンツィオが一切気にしないことをいいことに、テティスはべたべたと、それこそ失った肌のふれあい《スキンシップ》を取り返すようにシレンツィオに触れていた。

「おじさま、先程のお言葉、書き留めておいてもよろしいでしょうか。貴族の心得と重なるところが大きいような気がしました」

”自由に”

”シレンツィオさん、口を使いましょうよ”

「自由に。どんな金言も役に立たせることができるやつは数が少なく、役立たせるやつはそもそも金言なぞいらない、ということがほとんどだ」

 シレンツィオは言葉を続けた。

「だがまあ、ためになる時だってたまにはある。物事には何事も例外がある、だな」

”ぶぶー。シレンツィオさん。今の言い回しはなんか優しくて嫌です。性悪幼女にはもっと厳しく当たってください”

”なぜだ”

”独占したいです”

 羽妖精の正直すぎる意見に、テティスは一度だまり、しかるのちにそこらにあった煤払いの棒でシレンツィオの襟を叩いている。

”邪悪な羽妖精滅ぶべし、一切の慈悲なし”

”かかってこいやですよ!”

 シレンツィオは表情を変えずにテティスを抱えて自室へ戻った。さぞかし面白い図だったに違いないのだが、記録には残っていない。

 午後になるとマクアディがやって来ている。こちらも無事進級できたようであった。教室の隅の席でシレンツィオの横に座って身を乗り出している。

「シレンツィオって人間の国の凄い軍人なの?」

 どうやら、エメラルド姫に説明を受けたようである。ただ、その態度はそれまでと変わらない。ソンフランのいいところだと、シレンツィオは心のなかで頷いている。

「凄くはないな。凄い軍人がここでこうしているわけないだろう」

「そうかー。そうだよね。エメラルドが血相変えていたから、何事かと思った」

「血相を変えているのはリアン国ではなくて、俺の国かもしれんがな」

「そうなの? なんで?」

「女が放っておかないだろう」

”ポリコレ棒でぶっ叩きますよ”

”俺が何をしたというんだ”

 羽妖精とシレンツィオをよそに、マクアディは納得したという風に大きく頷いた。

「まあ母さんはうるさいもんな。こっちの事情を考えないですぐ帰ってこいというんだもん」

”シレンツィオさんは猛省してください。どうぞ”

”かわいいものじゃないか”

”そのいたいけな子供に何を教えているのかって話ですよ”

「それで国に帰るの? どれくらい?」

「さてな。何分遠いから、帰るのは相当大変そうだが」

「谷、大変だよね。母さんに手紙かいてあの谷渡るのに命がけって書いたら、言い訳はいらないとか書いて寄越してきたんだよ」

「凧で下ればすぐなんだがな」

「え、何? 凧って」

 シレンツィオはこの時、マクアディに牛酪の件を伝えている。後、この情報が役に立ったとされているが、本編には関係ないので割愛する。

「エメラルドを怒らないでやってくれよな。あいつ、すぐ怒るけど、悪いやつじゃないんだ」

「ソンフランが言うのならそうなんだろう。もとより、エメラルド姫に悪感情など持つわけもない」

「そうだよね。俺もそう言ったんだけど……」

”シレンツィオさん、この子リアン国の出汁にされてません?”

”あの不器用なエメラルド姫と俺を殺せない間抜けのエルフが、か?”

”過小評価すべきではありません。現にあの性悪幼女を見てください。堂々と政治権力を行使してます”

”あんなものは子供の戯言だ。それを利用しようという大人が悪い”

”シレンツィオさんのそういうところは好きですけど、人間年齢にしたらたいして変わらないんですからね”

”そうなんだがな”

「エメラルドがね、リアン国が苦境だって言ってるんだよ」

「そういうものか。まあ、だが数日で解決するだろう」

「そうなの、良かった」

 マクアディは素直に喜んで、エメラルドに伝えてくると走っていった。シレンツィオの襟が揺れた。

”あんなこと言って根拠とかあるんですか”

”海と同じだ。潮の変わり目というものがある。今のソンフランの言葉は、海鳥が飛んできているようなもんだ”

”騒ぎがあるってことですよね”

”そうなるな”

”荒事になるようなら、どこか遠い国に行きます? 私、遠い国でシレンツィオさんが開く食事処の幸運の妖精になります”

”それも悪くない話だな。だがまあ、まずは少しばかり風を読んで帆を操らねばならん”

”性悪幼女ですね。彼女が困らないようにしないと”

”それにガットと校長とマクアティとエメラルド姫くらいは守りたいんだが”

 シレンツィオはそう言った後、席を立ち上がった。

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