第30話 ステーキ
服を乾かすのにいささか時間がかかり、到着は夕方となった。この時代の夕方は午後三時頃になる。
ガットがにゃぁと言うとテティスが慌てて寮から出てきた。
「おじさま、おかえりなさいませ。必要なものでしたらなんでも用意しますから、無理はなさらないでください」
「なんのことだ」
”シレンツィオさんが断念して戻ってきたって思ってるんですよ”
シレンツィオは納得してテティスに口を開いた。
「そっちは問題ない。時にガットから、お姫様にうまいものを食べさせてほしいと頼まれたのだが、夕食はどうだ」
「まだです。晩餐にはまだ早いですから。ええと……途中で行商人から買い付けたのでしょうか」
”察しが悪いですねえ。心を読んだらどうですか?”
テティスは羽妖精を冷たい瞳で睨んだ。
「佃煮にしたあと猫に食べさせます」
「にゃーは食べたくないです」
「ガットは猫ではなくて私の従者だからいいのです」
”そもそもテレパスのことはちゃんと全部伝えてますから”
それを聞いてテティスは離れた。すごい勢いで離れた。
シレンツィオは首を傾げた。
「なぜ離れる」
”さあ、なんでしょうねえ”
意地の悪い笑顔で羽妖精はそう言った後、羽ばたいてテティスに近づいていった。
”おマヌケさん。言ったでしょう。シレンツィオさんは全部知ったと。その上で私は側にいる。意味が分かりますか?”
”あ、あなたに何が分か……ほ、ほんとに!?”
”まあ、シレンツィオさんから離れるのは歓迎しますけど、夕食食べさせると言ってるんですからその後にしてくださいね”
それで羽妖精は戻ってきた。襟の中に隠れて上機嫌に揺れた。
”言ってやりましたよシレンツィオさん!”
”何をだ”
”バーカバーカって。あとシレンツィオさんがおそらく二番目の無限抱擁を持っていることを”
”そんな事は一言も言ってないだろう”
”聞こえているじゃないですか。まあ、そうなんですけど! そうじゃないんです”
”そうか”
”そう、シレンツィオさんはそれでいいんです。私が守ってあげますから!”
”何から守るかしらんが、心強いことだな”
シレンツィオがそう念じて顔を向けると、恐る恐る、テティスが戻ってきた。
”テレパスですけど……聞こえていますか”
「聞こえている」
”あの、嫌ではありませんか”
「牛肉のことなら心配するな。たっぷりある。それと牛酪もある。食べたいと言っていたろう」
テティスは寄ってきてシレンツィオを見上げた後、太ももに抱きついた。
何故かテティスは泣いていた。ガットも泣いた。困ったのはシレンツィオである。そもそも事情も分からなかった。唯一上機嫌なのは羽妖精で、大勝利を連呼していた。
良くわからない状況のあと、シレンツィオはテティスの部屋で料理をしながら事情を聞くことにした。正直に言えば事情については心の底からどうでも良かったのだが、羽妖精から、そういうところが良くないですと説教されたのである。
仕方ない。
シレンツィオは牛肉を切りながら話を聞くことにした。
肉はケチらずに大きく分厚く切る。牛酪と比較して冬とはいえそう日持ちはしないし、塩を買い付けて塩漬け肉を自作するぐらいなら、買ったほうが安上がり、ということもある。
まずは肉を観察し、上下左右斜めから眺める。真剣である。
「あの、おじさま」
”シレンツィオさん、若干気持ち悪いです”
”そうか”
そう返事をした後、不安そうなテティスを見る。見れば側にガットがついて、手を握り、心配そうに尾を揺らしていた。
「言いにくければ言わないでいいんだぞ。俺は気にしない」
「い、いえ。とても大切なことなので。再確認になりますがテレパスのことを、どこまでご存知でしょうか」
「この牛肉ほどには知らんのだが、そうだな。心を読む力だと聞いている。説明はされてないが念じたことを相手に飛ばす力もあるのだろう。術者によって到達する距離は違うようだな。あとはそう」
シレンツィオは牛肉を見ながら鋭い目をした。
「話さないでいいのは便利だな。喋るのは面倒くさいと常々思っていた」
”校長のことを忘れてません? 喋らないと萎えますよ”
”残念ながら全員とテレパスできないので、萎えることはなさそうだが”
テティスはガットと手を取り合って、恐る恐る口を開いた。
「怖く……ありませんか?」
「何をだ?」
「心が読まれることを」
「ふむ」
シレンツィオは調理用ナイフをくるくる回した。
「もし心を読めるものがいたとしてだ」
「はい」
「それがいろんな人間の心を読んだとしよう」
「はい……」
「だからなんだのだ」
”シレンツィオさん、もう少し説明増やしてあげたほうが”
シレンツィオはそうかと考えた後、口を開いた。
「俺は船上と戦場で色々な人間の考えや本音を見てきた。土壇場というものは人の心を露わにする。その上で、だが、お前たちの能力は、要するに土壇場をたくさん見てきたこととと同程度の能力だろう」
テティスは困ったような顔をした。
「そ、そうでしょうか」
「俺も、誰が裏切って誰が女の事しか考えていないかくらいは、分かる。誰が信用できて、誰なら助ける価値があるかくらいはな。あるいは長年一緒の船乗りなら心の通じるときもある。その上でそういう能力をお前たちが持っていたとしてだ」
「はい」
「世の中にはクズが多い事は分かるだろう。友人にたる人間も、愛するにたる人間も、実のところそう多くはない」
”愛するにたるほうに人間以外も入れてくださいね? 羽妖精とか”
”同じだ。エルフだろうと、なんだろうと”
シレンツィオは言葉を続ける。
「流行の品物を買う。そいつの頭の中にあるのは好きでもないやつらに好かれようとすることだ。自分に共感する人間を見つけようと、見てきたような嘘をつくやつもいた。そういうのにはお前たちも飽きているんじゃないか。俺は飽きている。そいつらの言葉を聞くたびに、だからどうしたといつも思う」
シレンツィオは再び肉に目をやった。塩胡椒、にんにくを肉にまぶした。
「まあ、若いうちにそういう力を手に入れて困るのは分かるが、土壇場や修羅場を歩けばいずれはそうなる。そして必ず、クズに飽きる」
”シレンツィオさん……”
シレンツィオは筋切りを始めた。筋に垂直に隠し包丁を入れていく。これをしっかりしないと肉を焼いた時反ってしまう。また筋張って食べにくくなる。
「早めにそういう能力があるのはな、才能があるというんだ。クズに飽きたらクズでない人間やら羽妖精やらを探せばいい。それだけだ」
話を聞いて、テティスは長い溜息をついた。
「本当に何も動じてないのですね、おじさまは。心の底から、そう思っている……」
”そうだと思っているんじゃないかなあ。今心は肉に夢中ですけど”
”少し甘いものも作るか”
”謹んでお詫び申し上げます。シレンツィオさんは私のことも考えていました”
シレンツィオはたっぷりの塊牛酪を取り出した。テティスは小さな声で喋り始める。
「わたくし……生まれついてテレパスの権能を持っていて……」
「そうか」
「家族からも貴族界からも遠ざけられていました。学校に行く際も、ついてきてくれたのはガットだけです。学校でも一人孤立していました」
「そうか。やはりテレパスという能力は便利だな」
シレンツィオはテティスを見た。いつもと変わらぬ表情だった。
「その能力で真にはべらせるに相応しい人間を選別できる」
「そう言えなくもないですね」
テティスはそう言って、少し笑った。
「おじさまは居ながらにして私を遠くに連れて行ってくれたのですね」
「そんな大したことではない」
シレンツィオはそう言うと、大量の牛酪を底の浅い広い銅鍋の上で溶かした。
「焼くぞ」
そう言って肉を焼き始める。テレパスがどうとかよりも余程真剣である。
「弱火で焼きたいが銅鍋では火が通り過ぎる」
そこで火から下ろして濡れ布巾の上に置き、温度を調整した。肉を休ませる、ともいう。現代であればごく弱火だけで仕上げるのだが、この頃はそれができなかった。
シレンツィオは度々肉を休ませながら溶けた牛酪を銀の匙で掬ってかけている。
”エルフという種族は鉄が使えない分、調理器に銀や銅を使っているのだな”
”そうなんですよねえ。鉄が使える種族のほうがこのあたりは便利だと思います。”
鉄と銅では産出量が文字通り桁違いになる。鉄ほどありふれた鉱物もない。鉄があるからこそ人間は魔法がなくても増えていっている。
牛駱を何度もかけて仕上げた肉を皿に乗せ、葡萄酒と葡萄酢、塩胡椒、焼いた肉から出た汁に残った牛酪で味付けを行う。付け合せはナズナである。これも肉を焼いたあとの牛駱で短時間炒めた。
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