第28話 ガットと小便
帰りは普通に谷渡りをしようとしたところ、珍しい者を見かけた。テティスに仕える獣人の子供、ガットである。こちらは今から下山しようとしているようだった。長い尻尾で均衡を取りながら気負うこともなく崖に突き立てられた杭の上を歩いている。
「あ」
「お」
ガットが声を上げると、シレンツィオも同じく小さく声を出して片手をあげた。
「今から下山か?」
「にゃーは今、お使いを達成しました」
「帰りだったのか?」
その割に向きが違うような気もするが、そんな細かいことを一々気にするシレンツィオではない。そうかと納得して、渡りきって歩きだした。
ガットは、下山をやめるとついてくる。シレンツィオの後ろである。
「にゃーは、シレンツィオさんの案内でした」
「ふむ」
”あの性悪幼女が監視役をつけたのでは”
”なんの監視だ?”
”シレンツィオさんに決まってます。私とシレンツィオさんのラブラブを邪魔したのではないかと”
”ラブラブというのはよく分からんが、ちと早い気がするな”
”シレンツィオさんより歳上なのをお忘れなく”
シレンツィオはそういう意味ではないと片方の眉を上げたが、何も言わなかった。代わりに、ガットを見た。
”これから走るが、どうする”
”シレンツィオさん、口で言わないと伝わりませんよ”
「そうだったのか。ガット、用はいいのか」
ガットは小さく頷いた。
「にゃーはシレンツィオさんを案内するのが仕事でした」
「山の下までか」
「はい」
結構な距離だが大丈夫かと思いきや、獣人は子供でも異様なまでに運動力が高かった。荷物を担いでいるとはいえ、シレンツィオの脚にもついていっている。
それでもまあ、子供だ。シレンツィオは口を開いた。
「疲れたらおぶろう」
「にゃーはこれくらいでは疲れません。でも背中に捕まるのはすぅです」
「好きか。分かった」
シレンツィオはガットを背中に捕まらせて走っている。手だけで体重を支え、尻尾と身体を揺らしながらガットは楽しそう。
”なぜガットにテレパスが伝わらなかったんだ”
”そこの猫幼女は能力を持っていませんから”
当然ですよという、羽妖精の説明である。
”では、俺がテレパスとやらを使えるのはなぜだ”
”シレンツィオさんに能力があるわけでなく、私や性悪幼女がテレパス能力者で表層的な考えくらいは能力で読めるせいですね。読めるといっても言葉で考えないといけないので、かなり限定された能力ですけど”
”そうか。まあ、当たり前と言えば当たり前だな。お前とテレパスで話すのが普通になって、つい自分の能力と錯覚してしまっていた”
”シレンツィオさんは柔軟ですねえ。普通はそんな風にはなりませんよ”
”俺は自分の頭が固いと思っていた”
”本当に頭が固い人は羽妖精の姿が見えないんです。信仰がどうのとか、飛翔能力がどうのとか言って、自分の言葉で目が見えなくなるんです”
”ふむ。校長はどうだろうか”
”魔法の使いすぎですね。魔法が便利すぎてそれに頼るせいで関連する身体の機能が衰えていくんです。羽妖精がほとんど歩けないように、あの人も目が使えないのだと思います”
”歩いたほうがいいんじゃないか”
”私がですか? いやいや、そんなことした脚ぶっとくなります。最悪重くなりすぎて飛べなくなるかも”
”なるほど。魔法と付き合うというのは大変なのだな”
”私としては魔法が使えないほうがずっとずっと大変に思えますけどね?”
シレンツィオはそういうものかなと思ったが、それだけだった。魔法の利便性には特に興味がないのだった。魔法が美食の役に立つなら、また別であったろうが。
ともあれシレンツィオは本当に一日で往復してしまった。背のガットは背中でぶらぶらするのに飽きたのか、シレンツィオの背にしがみついて寝ている。
寝るだけならまだしも、寝小便までしてしまった。ガットは顔を真っ赤にしてにゃー、にゃーと言ったが、シレンツィオは特に表情も変えずに、洗濯することにしている。
”私の家が!”
”最近洗ってなかった。ちょうどよい”
かつて水をせき止めていた場所の名残か、城壁の外には小川のようなものが今もある。そこにシレンツィオは寄って、水質を確認した。この時代の川はどれもひどく汚染されていて、綺麗な水を探すのは一大事業でもあった。
シレンツィオは城壁から染み出している水を見つけ、そこに穴を掘って臨時の水場にしている。水量が少なく、貯まるまでは時間がかかった。さらに水が澄むまでにはもっと時間がかかる。
「まあ、ここまでくれば焦らないでもいいだろう」
重い外套を脱いで、シレンツィオはガットの服を脱がせた。一緒に洗濯してやろうという気だったが、羽妖精が邪魔をした。
”犯罪ですよ! シレンツィオさん! 私の裸で我慢してください!”
”そうはいうが、腹まで濡れているだろう”
とはいえ、子供にも羞恥心はあるか。それでシレンツィオが外套から取り出したのは、帆布だった。凧用である。
「身にまとうになんだが、乾くまではこれを羽織っているといい」
そう言って、かぶせた。ガットの耳はせわしなく動き、最終的には伏せられている。
「最近はおねしょをしていなかったんです」
恥ずかしいのとJK音が発音できないせいで言葉をつまらせながら、ガットはそう言った。シレンツィオはそうかといって特に表情を変えないでいる。
我慢できずに、羽妖精がシレンツィオの影から出てきた。ガットはびっくりした顔で羽妖精の姿を見上げた。
”もー! シレンツィオさん、表情筋が仕事してなさすぎです! いいですか、ガットちゃん、この人のそうかは本当にそうかの意味しかなくて、非難とか褒めるとかそういう感情は一切全然入ってません。つまり怒ってないんです”
そこまで一気に言って、羽妖精は心配そうにガットの頬に触れた。
”大丈夫ですよ。無愛想なだけで心は広い人ですから”
ガットは呆然としている。
「羽妖精……」
”あ。そうです。でも私がいるのは秘密にしてくださいね。エルフに見つかると佃煮にされるので”
ガットは何度も頷いている。その間、シレンツィオはどうしていたかというと買った牛肉に植物油と香草をからめて皿に置いている。下ごしらえである。
”シレンツィオさん、もう少しガットちゃんの面倒を見たほうがいいと思います”
”お前が見ている”
”あと口に出してあげてください。性悪幼女と違って心を読んでくれません”
”そうか、残念だな”
シレンツィオがそう言うと、羽妖精は呆けたような顔をした。
”テレパスを持ってない人をそういう風に評する人をはじめてみました”
”そうか”
”なんの興味もなさそうですね?”
”ないな。世間に思うが、他人がどうとか、気にし過ぎだろう”
”シレンツィオさんが気にしなさすぎです”
”そうか”
シレンツィオはなんの興味もなさそうに思った。実際興味など微塵もない。彼の興味は別にあった。
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