第27話 牛酪の作り方
(7)
シレンツィオはヘキトゥ山の西端に降りたようだった。登山口が南側だったのでだいぶずれている。移動しながらシレンツィオは、星を見ておおよその場所を割り出した。
”迷子になったら、放浪の旅に出ましょうね”
”そうしよう。ともあれ、大丈夫だ”
羽妖精から見るとなんとはなしに見えた歩きだったが、夜明けころには確かに広大な牧草地が見え始めている。人里というかエルフ里も近いのは間違いなかった。
そのまま牛飼いに挨拶して、村に案内してもらった。子牛と乳牛は村に集められていると言う。
シレンツィオは丁重に礼をすると、村で乳搾りをしている娘に、牛乳購入の交渉を行った。ヤギ乳の方が安いと勧められるがシレンツィオは牛乳を購入した。ヤギの乳で牛酪ならぬヤギ酪はできるが、一リットルあたりにわずかしか作れないからかえって高く付くのである。
最終的に、シレンツィオは銀貨で牛乳と牛肉、黒麦などを購入している。アルバ銀貨の額面価値ではなく、銀の地金としての取引だった。この時代アルバ銀貨はリアン国経由で相当ルース王国にも流入していたが、それはあくまで都市部に限られ、田舎では用いられていない。これもまた、金銀銅の不足によるものである。人口に比べて貴金属が少なすぎるのだった。この問題を解決するには度重なる改鋳による悪貨の増加と紙幣の登場を待たねばならない。
”やるか”
シレンツィオは外套を脱ぐと革袋に入れた牛乳に葡萄酒から作った酢を少量入れて、振った。そして振った。物珍しそうに村人たちが見る中で大回転している。
”シレンツィオさん、大変面白いことになってます!”
”面倒くさいが仕方ない”
十分に振り回すとそれで、脂肪分とそれ以外が分離される。塊のような脂肪分が牛酪であった。
”バター作るのって大変ですね。魔法で楽できないかな”
”遠心分離機を作ればいいのだが、面倒くさい。個人で食うならこの方式で十分だ”
暑い時期や暑い国ではここからさらに加熱して油分とそれ以外を再度分離させて日持ちする牛酪を作るが、今は北半球の一月、その必要はないとしてシレンツィオはそのまま使うことにする。
匂いが移る前に革袋から取り出して、陶器の器に入れる。これで完成である。シレンツィオは火をかりて、残った脱脂乳からさらに乾酪を作り、残りの乳精を飲み物として利用した。葡萄酢と僅かな砂糖を入れて飲むのである。
”お酒つくれそうな匂いがします”
”間違ってないが、酒種がないからな”
酒種とは酵母のことである。この時代、微生物についてはあまり知識がなく、酒の一部を残して酒の材料になる飲み物に入れてまた酒を作るという方法が主流だった。当然雑菌が入ることも多く、品質はまるで安定していない。こればかりは厳密な維持管理ができる定住者でないとつらいというのがシレンツィオの意見である。
”そう言えばシレンツィオさんはあまりお酒を飲んでませんけど、船乗り一般はどうなんですか?”
”腐らない水として需要はあるな。正体なくすまで飲むことができるのは陸に上がってからだ。海上で酔うと命に関わる”
”そうですよねー。それはそれとして陸に上がるって表現が船乗りぽいです”
”そういえば、羽妖精は酒が好きなのか”
”大好きです。浴びるように飲むのが夢です”
”そうか。そのうち一緒に飲むか”
”いいですねえ。子供は禁止ですよ”
いつだったか自分を幼女だとか言っていたがと思ったが、シレンツィオは何も言わなかった。軽妙なやりとりというものに興味がない。
”では帰るか”
”はい。どうやって帰るんですか。凧は使えませんよね?”
”走る”
”シレンツィオさん自分を老人とか言う割にちょいちょい肉体派ですよね”
”そんなことを言われてもな。年寄りだろうと身体を使わないでどうするんだ”
”魔法とか”
”魔法が使えるならな。俺は使えん”
それでシレンツィオは、軽い駆け足で山登りをしている。列を作って登る人々を追い抜いて、どんどん先に進んだ。疲れているのか見晴らしのいいところではだいたい座り込んだ休憩者がおり、それらに挨拶しながら登っていく。
冬山といってもこのあたりはまだ降雪しておらず、常緑樹が多いこともあって、冬の気配はあまりない。
足元はしっかりしており、このため二時間ほどで四合目まで登った。幼年学校はヘキトゥ山の五合目付近にあるのでかなりの速度である。
”早いですねえ。この速度なら行きも走りで良かったんじゃないですか?”
”足をくじく危険は降りるほうが大きい”
”なるほど”
足をくじくと、即遭難とまでは行かないまでも、とてもではないが一日の往復ができなくなる。
”うーん。シレンツィオさんって合理的ですねえ”
”日帰りで牛酪を作りに行っているが”
”シレンツィオさんって一部合理的ですねえ”
”そうだな”
”シレンツィオさんのそういうところ好きです”
シレンツィオはわずかに苦笑した。
”どこにそんな要素があった”
”自分でも駄目だなあと思うんですけど、シレンツィオさんが誠実に見えるときがあるんですよね。あ、俺は誠実だとか言わないでもいいです。私が勝手に納得して、勝手に好きになっているので”
”そうか”
”羽妖精に誠実な人って少ないんですよ?”
”そうか”
”他人がどう言おうと俺は俺というところも好きです。世界が敵になっても、私の味方をしてくれそうだから”
”世界は広い。それゆえに一つに団結することもない。世界が敵になるなど杞憂だ。せいぜいその一部だな”
”慰めてるんですよね、それ?”
”どんなときにも希望はあると言っている”
”もしかしたらシレンツィオさんは本当に明るいのかも”
羽妖精は襟から顔を出してシレンツィオの頬に口づけした。口づけをした羽妖精の方が照れていた。
”今のは妖精の祝福ですからね”
”そうか”
なお、シレンツィオ的には脱いだりするほうが恥ずかしいことだと思っているので、口づけについて思うところはなかった。むしろ手の甲や頬への口づけは挨拶なのがアルバの常識である。
羽妖精はそれが面白くないのか、小さく襟を揺らした。あるいは身悶えしていたのかもしれぬ。
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