第25話 飛んだ

 休みを心待ちにしながらちょくちょく校長室へ通う。そのうち機会が訪れた。休みの前日、校長室に不在札がかかっていなかったのである。

”いくか”

 校長室の前でシレンツィオが考えると羽妖精は襟に隠れた。シレンツィオは声を張り上げる。

「エムアティ・エミラン様にお会いしたく参った」

「まずは名乗りを上げてからですよ」

「失礼した。生徒のシレンツィオ・アガタと申す。エムアティ・エミラン様にお会いしたく参った」

「はい。どうぞ」

 部屋に入り年下の淑女を相手にするように膝をついて頭を垂れる。手のひらに口づけをしたらエムアティは乙女のように笑って、シレンツィオは抱きしめられて頭を撫でられた。

「まあ、おませさんね。ふふふ」

”シレンツィオさん、気持ち悪い顔をしてませんか”

”いや、さすがになんというか、騙しているみたいで心が痛む”

”何を騙しているんです?”

”年齢だな”

”嘘はついてないんですし……”

”そうかもしれんが”

 エムアティは煙るような笑顔をみせた。そのぼうっとした瞳を、シレンツィオはじっと見つめた。

「学校には馴染めた? 劣等人だからといって差別するような人はいないと思うけど」

「大丈夫ですが……エムアティ様は目が……?」

「ええ、もうあまり見えません。でも大丈夫、魔法がありますからね」

「魔法は便利なものだと思いますが、お困りのときは俺を目の代わりにお使いください」

「ふふふ、ありがとう。ところで御用はなにかしら」

「実はわからないことが一つ。素朴な疑問なのですが……」

 それでシレンツィオは牛酪の話をした。話を聞いたエムアティは、笑顔になって優しく話し始めた。

「まずは、シレンツィオくんはえらいのね。よしよし。疑問に思ったことを調べるのは、とても大切よ。寿命が短いからって投げやりにならないその態度は立派です」

「痛み入る」

「それで質問にお答えすると、冷蔵技術のせいね」

「冷蔵」

「魔法で牛乳を冷蔵保存できるの。エルフはほら、種族的に胸が小さいでしょ。それで赤ちゃんに飲ませる母乳に困るから、牛乳を魔法で変質させて利用しているのよ。その関係で他国より牛乳の消費がとても多いのね。牛酪自体は作らないわけではないけれど、同じく売るなら牛乳そのままの方が加工費を含めて考えるとずっと高く売れるのよ」

「なるほど。需要と供給、売価の問題と」

「そうなの。代わりに人造牛酪があるわよ」

 ここでいう人造とはエルフ製のことである。エルフが自称を人間としていることは前に書いた。

”マーガリンですよシレンツィオさん。危ないやつです”

”健康に被害が出ると? その割にどのエルフも元気そうだが”

”摂りすぎがよくないんです”

”それはなんでもそうだと思うが、分かった。特に気をつけよう”

”はい”

「他にはなにかあるかしら?」

「ないのですが、そうだ。エムアティ様は、お忙しいのですか」

「この数日はね……いじめの話があるみたいで。シレンツィオくんも見つけたら先生に教えてね」

「分かりました」

 エムアティの髪の乱れをそっと直し、シレンツィオは頭を下げて辞した。図書室にも興味はあるが、これは急がなくても良いであろう。

”もしかしたら、前に食べたクッキーだのは人工牛酪が入っていたのかもな”

”言われてみればそうかもしれませんね”

 エルフは人工牛酪と言ってるが、本物の牛酪に似せるつもりはあまりなさそうである。本物が手に入らない関係で味を似せる必然性が薄れたのであろう。あるいはどこかには本物に似せたものもあるかもしれないが。

”でも私はですね。本物の牛酪を使ったクッキーが食べたいです。あとあの娘にも良さそうな? エルフにバターは合うのか分かりませんけど”

”試す価値はある”

 それで明日、休みの日に牛乳を買いに行き、その場で牛酪を作って運んで戻るという計画が建てられた。

 片道二日の道のりを一日で往復という、随分と無茶な計画である。

「あの、おじさま、その食べ物はそこまでやらなければならないものでしょうか」

 休み時間にテレパスでの会議を聞いていたテティスが、控えめに意見をした。シレンツィオの襟が揺れた。

”男には戦うときがあるんですよ”

”あなたは女で羽妖精ですよね”

”細かい幼女ですね。戦うのはシレンツィオさんなんだからいいんです”

”幼女ではありませんし、あなたが大雑把すぎるのです”

 シレンツィオが割って入った。

「実はそんなに難しくなくてな」

「そうなの……ですか?」

 テティスは小首を傾げた。

「来るときは集団だったんだが、輸送のための荷物が多く、子どもたちを連れる関係で、速度が遅かった。大人の足で単独で行くなら時間はかからないだろう」

「おじさまはわたくしよりちょっと年下ですよね?」

「そうだが、まあ、見ておけ」

 シレンツィオは自信満々である。

 翌朝、夜明け前からシレンツィオは出発している。灯りは羽妖精である。うっすら光るので、それを灯りにしてシレンツィオは進んでいる。

”もう少し光ります?”

”いや、この程度で十分だ。あまりに明るいと今度は夜目が効かなくなる”

 この頃の海賊などが眼帯をしているのも同じ理由である。船内に入ると薄暗いので、片目はそちら用にしているのである。

”見る、で思い出したが、魔法で見ると俺は幼く見えるらしいな”

”魂の年齢を見ているんでしょうねえ。生成日かログインスタート日を習得できるんだと思います。ログインはこの一万年近く確認されてませんから生成日かなあ”

”生成日とは誕生日のことか”

”そうとも言いますね”

”専門家が難しそうな言葉を使うのはどこも同じだな”

”私は専門家ではないですよ”

”そうなのか? 妖精とはすべてが魔法使いだと思っていたんだが”

”まあ、そのくくりでいけば魔法使いなんですけど、魔法使いの専門職に魔法師がいて……なるほどシレンツィオさんの言う通りですね。専門家というか専門化すると用語が難しくなります”

”学名と同じなのだろうな”

”ですねえ”

 おしゃべりをしながらシレンツィオは裂け目までやってきた。行きの時に難所であったあの場所である。

”ここを渡るのは明るくなってからですねえ”

”そんな暇はない。飛べるならついてこい。飛べないなら襟にいろ”

”え、え? シレンツィオさん魔法使えませんよね?”

”どこに使う必要があるんだ”

 シレンツィオは帆布と棒と縄を組み合わせて大きな凧を作った。取っ手つきである。

”行くぞ”

”ちょ”

 飛んだ。月夜にシレンツィオは凧で谷を飛ぶ。羽妖精がわーと叫びながら、シレンツィオの外套を必死に持ち上げようとした。

”無理です向こう岸までいけません!”

”下山するのに向こう岸に行ってどうする”

”えー!”

 羽妖精が風で離されそうになるのをシレンツィオは捕まえた。はためく外套の襟に入れる。そのまま、谷に沿って降りていった。

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