第22話 牛酪

 話をしていたら、小走りでエルフの幼女が寄ってきた。テティスであった。シレンツィオに抱きつかんばかりで、実際抱きつくところを外套から出てきた羽妖精の手で拒絶された。テティスは年齢に合わない冷たい目をしたが、すぐ笑顔になった。

「おじさま、お食事ですか?」

「そうなるな。ところでつかぬことを尋ねたいのだが、なぜかこの地で牛酪を見たことがない」

「牛酪……牛乳の脂肪だけを固めたものですよね。知識としては知っています」

「使わないのか。それが不思議でしょうがない」

 子を孕んだ牛は大量の乳を出し、人間と同じように絞り出さねば乳腺炎になってしまう。病没したり肉を取ったりで子牛が死ぬと、この牛乳が消費しきれず、毎日破棄するのをどうにかしようとして作られたのが牛酪バター乾酪チーズである。地方によってはこれに発酵乳ヨーグルトが加わる。

「牛の頭数は俺の故郷より多いように見えた。だったら牛酪が大量に出回ってもおかしくないのに姿が見えない」

 テティスは小首を傾げた。

「わたくし、領地に牛がいるのは知っていても、消費がどうとかは考えたこともありませんでした。今度手紙を書いて尋ねてみますね」

「そこまでしなくてもいいのだが不思議でな」

 テティスは微笑んだ。

「質問なのですが、牛酪というものは美味しいのですよね?」

「単独では使わないがそうだな」

「わたくし、またおじさまの美しい料理を食べたいです。作ってくれますか?」

「分かった」

「嬉しいです。おじさま」

”シレンツィオさん、顔がいやらしいです”

”そんなわけないだろう。俺は表情を母親の腹の中に忘れてきた男だ”

”一体いくつ母親の中に置き忘れているんですか、多すぎですよ”

”そう言われてもな。何が不満だ”

”優しい声になっていていやです”

”あら、おじさまは私をどこにでも連れて行ってくれるんですよ? 貴方と違ってね?”

 テティスは可愛らしい笑顔を浮かべてテレパスを飛ばしてきた。

”仲良しの会話に入ってこないでください”

 テティスは一瞬得意げに笑うと、ではおじさま、後でと言って元気に歩いていった。

”やつから危険な匂いがしますよ。シレンツィオさん”

”危険も何も、子供らしくていいではないか”

”同級生ですがなにか”

”そうではあるんだがな”

 お前との方がよほど事案だろうと思ったがシレンツィオは黙った。面倒くさくなったともいう。

 それよりも牛酪の話をしていたら牛酪を使った食い物を食べたくなってしまった。こうなると他の何かをさておいても食べたいものである。

”この学校に休みはあったか”

”シレンツィオさん昨日説明ありましたよ。えっとですね。五日に一日の休みがあります”

”なんで七日でないんだ”

”宗教の違いですね”

”そう言われると何も言えんな”

”そうですねえ。ちなみに船の上はどうされてたんですか”

”船の上に休みはない。が、曜日については覚えていられるよう努力している”

”努力、ですか”

”これが永遠に続く、と錯覚すると人は簡単に正気を失う”

 日数を数えること、時間が動いていること、この二つを把握させることが船乗りを正気に留めるのに何より重要だとシレンツィオは言った。

”逆に言うと日数を数えられないようにするのは拷問の一種だ。相当堪える”

”羽妖精は日数を数えると憂鬱になると言いますけど、文化が違うものですね”

”単調すぎると人間やエルフは駄目なのだろう。羽妖精はどうだ”

”そもそも単調な生活なんかしようとしませんよ。私たちは。お祭り大好き羽妖精ですよ?”

”そうか”

”でもー。シレンツィオさんが私に興味を持ってくれて嬉しいです”

 あけすけな好意のまじった言葉にシレンツィオですら少し微笑んだ。

”さておき、休みになったら山を降りて麓で牛酪を手に入れよう。問題は売ってないことだが。

”牛乳から作るのはどうですか?”

”最悪はそれだな。牛乳を買った場で牛酪にして運ぶ、これしかあるまい”

”それにしてもシレンツィオさん、料理好きですね”

”料理が好きなんじゃない。まずいものが食べたくないだけだ”

”自分で食べないものでも良く作ってくれるじゃないですか”

”なるほど、そう言われればそうだな。俺は料理が好きなのかもしれん”

”しまった、私が好きなんですねって誘導すればよかった”

 ところで入学三日めにしてシレンツィオはめでたく学年があがって二年生になっている。これはテティスも同じである。話によれば上級貴族は四年生まですぐに上がるのが普通であると言う。そこから先は身体を動かす機会があるので低年齢だと中々あがらないとも。

 いずれにしてもエルフの一年は人間の四年である。随分と気の長い話ではある。

 教室のやはり一番後ろの席に座る。着替えなどを綿の代わりに入れた座布団を使い、椅子なしでちょうどよい高さとなった。

”私が刺繍を入れました! ペルチェ素子の魔法陣で表面が温かく裏が涼しくなっています! 環境に配慮したエコマーク付き”

 羽妖精がそう言って、シレンツィオが褒めるまで私がやりましたと連呼した。

”えらい”

”えへへへ”

 二年生は一日の授業の半分がエルフ語で、残りの半分が算術、という時間割であった。

”母国語が多いのはなぜだろう”

 授業を受けながらシレンツィオはそんなことを頭の中で言い出した。襟が揺れた。

”俗エルフ語なんて北大陸でしか通じないんですけどねえ”

”わたくしがお教えしますね。魔法と、あと命令をきちんと理解しないといけないからだそうです。廃れていますけど、エルフの言葉は魔法の呪文にそのまま使えるんですよ”

”仲良しの会話に入ってこないでください”

 シレンツィオの横に座るテティスは、無視してシレンツィオに微笑みかけた。

”危険な香りがしますよシレンツィオさん”

 シレンツィオはこれを無視した。授業の話が面白かったからだ。色々な植物の名前と綴を説明していくもので、独学でエルフ語を覚えたシレンツィオの知らぬ単語が大量にでてきた。

”植物に関する語彙が多いのだな”

”そりゃまあ森妖精ですし”

”おじさまの国では違うのでしょうか”

「こんなにはないな。一方、風や魚の語彙は多いぞ。同じ魚でも成長段階で呼び名が変わったりする」

”秋津洲と同じですね!”

”同じ海洋国家だからだろうな。ふーむ”

”おじさま、どこに考える要素があるのです?”

「言葉は歴史とともにある。あるいはこうも言う、言葉は生き方を示すと。言葉を知ってはいたが実感はなかったが、今それができた。なるほど。面白い」

”軍の幼年学校でそんなことを言っている人を初めてみました”

”シレンツィオさんは幼年学校にあってないんですよ。というか、会話に入ってこないでください。シレンツィオさんとのテレパスは私専用です。帰って”

”授業中にテレパスを使うのがいけないと思いますよ?”

 二妖精のやり取りを聞き流しながら、シレンツィオが考えたのは、酪農はどうなのかであった。牛酪がないのは歴史が浅いからではないかと思ったのである。牛乳を飲む文化のない国では牛乳を忌避する者もいるところからの想像である。

”エルフが酪農を始めたのがいつ頃か知りたくなった”

”シレンツィオさん、時々変なこと言いますね”

 調べたいことを調べるにはどうすれば良いか、教師に訊くのが良い。シレンツィオは酪農の開始時期を尋ねたが、教師は目を白黒させて、わからないと言い出した。

「授業のどこに酪農が出てきたんだね」

「そう言えばでてなかったな。失礼する」

 次善の策として書に頼る、である。アルバの古都、羅馬には碑文の間というものがあってそこには古代の文章が良く記録されていた。同じようなものがあるだろうとシレンツィオは考えた。

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