第2話 サランダ総督府

 そのシレンツィオが、浮き桟橋の上をのんびりと歩いている。

 背の高さは一九〇cmを超え、鍛え上げた筋肉は黒い外套ごときでは隠せそうもなかった。涼やかな顔立ちの男で瞳は北の海のように暗い青、髪は闇を思わせた。強そうと言えば、これほど強そうに見える男もそうはいない。木板を並べた桟橋の上を、音も立てずに歩くのが大層不気味だった。静寂の名の由来の一つである。

 着いた港はニアアルバの良港サランダである。良港を抱える街の多くがそうであるように坂道の多い街であった。良港の条件の一つに陸地のそばまで水深が深いことが挙げられるが、そういう土地の多くが水没した谷だったのである。そして沈まなかった山の部分が、港や港町になっていた。

 それゆえサランダは坂の街である。馬車も入れないために道は細く、狭い土地にひしめき合う家々は上に伸びていた。三階建ての家が普通であり、中には四階、五階という家もあった。いずれも日除けで白く塗られ、清潔感と開放感を形作っている。

 実際この時代としては例外的に、サランダは綺麗な街だった。傾斜のきつい坂と細い道により馬や馬車の乗り入れがないため、馬糞がなく、坂道が下水代わりとなって雨が降ると汚物を海に押し流すためである。この綺麗さを見習って、これより先数十年をかけて裕福な都市は下水網を作っていくが、この時代、綺麗さはサランダだけの専売特許であった。

 シレンツィオが向かったのはサランダにあるアルバの総督府ガバメントである。現代でいうアルバ第一帝国、この頃は古代帝国からの伝統で総督府といういかめしい名前がついているが、サランダにあるそれはさして大きなものではなかった。一〇〇〇年ほど前にはここに属州民とともに立てこもることも想定して作られた城、という触れ込みであるが、何分一〇〇〇年も前であるため、この時代の水準からすると随分と小さく、周辺に総督府より大きな商館が立ち並んだせいでなんとも見劣りするものであった。

「シレンツィオ・アガタ。お召しにより参上した」

 色鮮やかな傭兵門番にそう告げたのは昼前だったとされる。アルバでは古式ゆかしく来客、来訪は午前中に限っていたので、ぎりぎりの到着、ということになろう。嫌な顔をされると思いきや、特に気にするようなこともなく、中に案内された。

 総督府は古代建築の多くがそうであったように色とりどりの砂岩でできていた。赤いもの、白いもの、黄色がかったもの、それらの砂岩を用いて色彩豊かな建築物が作られている。

 窓から見えるシーリア海はまるでダンスを踊っているようであった。波と風が共に、繊細なリズムを刻んで海を彩っている。時折、風に乗って鳥たちが海岸沿いを飛び交い、建物と合わせて一つの絵画を形作っていた。

「古い建物ですが、この眺めだけは良いのです」

 思わず立ち止まったシレンツィオにそう声をかけたのは総督ガバナーである若葉フォジジョヴァである。この時二〇歳で、当時の基準であれば若手を卒業して中堅に差し掛かる、という年齢である。彼女自身は大商館の次女であり、店を継ぐ代わりの捨扶持として官僚の地位を買って渡され、サランダ総督の地位を得ていた。売官など今の時代では激しい攻撃の対象になろうが、当時においては悪いこととはみなされていない。むしろそれ以前の暗殺を含む壮絶な権力闘争から、かなり進歩したとみなされていた。

「見事な風景です」

 シレンツィオが言うと、若葉は微笑んで自身も窓の外を見て口を開いた。

「南方のあきつしまでは借景というそうです」

「なるほど。言い得て妙な言葉です。覚えておきます」

「そうですね。安上がりにいい庭を作れます」

 そこまで言って若葉は表情を暗くした。

「お待ちしておりました。シレンツィオ・アガタ様。ニアアルバ不世出の英雄、アルバの宝剣であるあなたをお迎えできるのは、社交辞令ではなく、大変嬉しく思っています。にも関わらず私はこれから、シレンツィオ様に不愉快な話をしなければなりません」

「あなたが決めたことではない」

 シレンツィオがそう言うと、若葉は少しだけ微笑んで口を開いた。

「せめてもてなしをさせてください。この日のために色々な歓待ができるように準備をしていました」

 この日の歓待については記録が残ってないが、一五年の後、若葉の娘がシレンツィオ・アガタの子を名乗っている。その真偽はさておき、つまりはそういうことも含む大歓待であったのだろう。

 シレンツィオに対してニアアルバの人々がどう思っていたか、よく分かる逸話である。

 アルバ本国の周辺、中でも西の領域をニアアルバという。アルバ近くという意味である。地理的にはシーリア海と、シーリア海を挟んだアルバの飛び地を指した。攻め寄せるニクニッス国相手にこの飛び地が持ちこたえたのはアルバ本国から膨大な量の補給が海路で輸送できたからであった。その立役者がシレンツィオである。彼は艦隊司令、当時の言葉でいえば大艦長の地位にあって補給を断とうとするニクニッス海軍相手に何百回と戦ってその多くで勝っている。

「それを中央アルバの盆暗どもときたら……」

 若葉はシレンツィオの手にする杯にぶどう酒を注ぎながら嘆いた。

 シレンツィオは笑いながら若葉を抱き寄せて、いや、それほど悪い話でもないと答えている。

「なにせ貴方の酌を受けることができたのだ。そんなに悪い話でもない」

 この日、シレンツィオが受けたアルバ本国からの命令書は以下の通りである。


1:コルアブに知行地を与え、男爵に任ず。

 これはすでに、艦隊を離れる前にシレンツィオに聞かされていた。コルアブとはニアアルバの端、山岳地帯にあって国境紛争地帯である。そう聞くと最前線送りかと勘違いされそうであるが、あくまで知行地であって、シレンツィオ自身は現地に向かうことを強制されてはいなかった。代官を送って年貢だけを受け取る手もあり、多くの貴族はそのようにして生活していたから、あながち悪いというわけでもない。前線近くで土着貴族が戦死し、土地に空きができた、または新たに増えた領地にシレンツィオを割り当てたと考えられる。

 若葉が不愉快な話をしなければならないと言ったのは、もう一つの項目についてであった。

2:男爵に任じるにあたり、二年の修行期間を与え、ルース王国の士官学校への留学を命じる。

 士官学校在学者の多くが一五歳である。そこに三一歳が飛び込むという話である。若葉が憤るのも無理はない。なにかの罰か、というところである。

 今日の目線でいえば、いきなり貴族になる前に領地貴族として最低限の勉強をせねばならず、そのために勉強をさせるというのはそこまでおかしな話でもない。国内ではなく国外に留学させるのも、年の差で白い目に見られて恥ずかしい思いをさせないようにという配慮によるものかもしれない。とはいえ、他にやりようはなかったのかと、同時代の人々の多くがこの沙汰に文句を書き残している。若葉もまたその一人だった。


 シレンツィオはそういう空気の中で歓待されたわけである。

 彼が総督府から出てきたのは三日後であり、(それはそれとして)さぞかし人生を楽しんだと思われる。

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