第四章 誰が為に 十六話

 銃は、あたかも勝手に火を吹いたようだった。


 あの男のつま先から数センチも離れていない床に、銃弾は吸い込まれて、あな穿うがった。


「いいのか。話を聞けなくても」

 あの男は冷静に小春を見つめている。


 小春はもはや自分が怒っているのかさえ、わからなかった。

 ただ、己がひとつのエネルギーの塊になったようだった。とにかく、この男を殺す……それだけのエネルギー。

 それが辛うじて佐和を知る、その思いだけに、無理矢理小春の身体のうちに押し込められていた。


「自殺だよ」

「嘘だ!」

 小春は、カッとなって叫んだ。

「あんたが殺した!」


「……あるいは、そうとも言えるかもしれない」

 小春は今度こそ、胸元に正確に狙いを定めた。


「けども、おれ以上に、佐和を殺した人がいるんじゃないか?」

 今まさに引き金を引く直前だった小春の指が、止まった。


「誰?」

 唾を飛ばしながら、小春は言う。

「誰なの?」


「あんた、佐和の親友だろ?」

「……だから?」

「そんなこともわからないのか?」

「……あなたの戯れ言に付き合うつもりはない。佐和を殺したのが誰か、早く教えなさい……」


「あんた、いっつもそうやって、佐和、佐和って、自分よがりに佐和を求めるばっかりだったんじゃないのか? あんた、佐和の気持ちを考えたことがあったのか? 佐和が何を考えて、何に苦しんでるかってことを?」

 小春の指が、今度こそ、止まった。


 決してあのわし鼻のような外面を撫回す言葉ではなく、確たる芯の籠もった言葉として、あの男の声が響いた――それ以上に、あの男が何を言わんとしているか、それを察したからだった。


「ああそうとも。佐和は優しい子だった。誰よりも、誰よりも、優しかったよ……。

 ホームレスひとりのために、涙を流せるほど、優しい子だった」

「知ってるわ……あんたがたぶらかした。

 あの佐和が、人殺しなんてできるわけない。だって、あの時も、あんなに苦しそうに泣いてた……。助けてって、聞こえたもの……」


 あの男の口調が、呆れを混ぜたものになった。それが一層、小春を動揺させた。あの男の話す内容が、嘘偽りではないと、その吐く息が明瞭に示していた。

「あんたは、チョコレートが好きなんだってね」


 小春は唐突な話に眉をしかめた。あの男は構わず続けた。

「その、あんたが口にしたカカオの一塊で、いったい何人のコートジボワールやガーナの子どもが死んでると思ってる? あんたも知らないでもないだろう、有名な話さ。佐和はそのひとつひとつを泣いて哀しむ、優しい子だった。


 そんなあの子が、無神経で、自分勝手なあんたの傍で、どれほど世界への同情と怒りと哀しみに暮れ、けれどそれをあんたに見せまいとして、努めて笑顔を見せていたのか、知ってたか? なんであの子があんたの傍を離れようとしてか、理解しようとしてたのか?」


 あの男の言葉は、泉の水が岩に染み込むように、小春の脳内へと拡がっていった。

「そうとも、確かに、おれはあの子を殺したことになるかもしれん。それは、おれがあの子と関わったからだ。しかし、おれがあの子を殺した以上に、殺した者がいるだろう?」


 あの男の言葉は、確かな確信と予兆を、小春の胸に降らせていた。小春の腕は、もはや、あの男の胸を指してはいなかった。

「それは、周りの親しい人間だよ。

 つまりね、あんたが佐和と親しいというのが事実であればあるほど、そしてその関係がより親しければ親しいほど、佐和を殺したのは、あんた自身なんだよ」


 小春はもう、その言葉に反論するだけの心意はなかった。

「佐和を殺したのは、佐倉小春、あんただよ」


   *


(どうしてこう、いつも、正反対の結果ばっかり、なるんだろうな……)


 真也は、足を引きって歩いた。

 しかし数歩も行かないうちに、その足から力が失われ、塀に倒れかかった。視界には腕泥棒の男の死体と、黒いランニングウェアに身を包んだ一団の死体、そして、仲間たちの死体がある……撃たれそうになっていた真也を助けに、応援に呼んでおいた仲間たちが救い出しに来て、乱闘になった。真也は腹を撃たれた。


 腹から、止めどなく血が流れている。

(これじゃ、助からない、か……)


 真也はため息さえつけなかった。

(どうして、こんな人生だったんだろ……)

 みんなはいったいどこへ行ってしまったのだろう、と真也はそう思いながら、目を閉じた。


   *

 

「でもおれは、生き過ぎてしまった……疲れてしまったよ」

 あの男は、小春が初めて見る、暗い顔をした。しかし、それもほんの一時のことで、すぐに顔を上げると、笑みを浮かべて言った。


「その点、佐和は、死ぬのにちょうど良い時に死んだ」

 次の瞬間には、あの男の肩に弾丸が吸い込まれていた。男の黒い肩から、赤い液体が二筋、流れ出す。胸と接する位置の、肩の付け根……。小春の手は震えていた。


「あんたも、いずれわかる……長く、醜く、生にしがみつくようになって、初めて……」

 あの男は咳き込みながら、口を開いた。


「さっき……この事件の、全貌の会話を、動画として配信した」

 小春は胸のうちが白くなる感覚がした。室内を見回すと、小春も良く知る茶色い棚の上、写真立ての陰に、確かにビデオカメラのレンズがうかがえる。


「おめでとう。佐倉小春……いや、『英雄』さん……。民衆は、国会議事堂と首相官邸を占拠した後、その動画を、見るだろう。そして、『歯車』の旗を、叩き折るだろう。その時、あんたは、真の『英雄』として、迎えられるだろう」

 小春は訳が分からず、狼狽うろたえた。


「なんで……なんでそんなこと……」

「本来、あんたが来なければ、おれはこの銃で、自害するはずだった。それで、民衆が、民衆自身を取り戻す……そうなる、はずだった。だがあんたと話して、あんたが真の『英雄』として、持ち上げられてみるのも、悪くはないと、ふと思ってね」


 あの男は、口の端から血を吐き出した。

「おめでとう……おめでとう、『英雄』……」

 吐き出された血が、男の黒い服に染みを作る。

「こんなクズな世界の『英雄』として……」


 それ以上、男の言葉が続くことはなかった。あの男は力なくソファーにもたれ、目を閉じていた。

 あの男の顔は、憎たらしいほど、幸せそうに笑っていた。 

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