第四章 誰が為に 九話

「やれやれ、久しぶりに顔を見たと思ったら、『英雄』なんて呼ばれてるらしいじゃないか……」叔父は苦笑いした。「しかも、これは、酷いな……」叔父は、小春の右腕を見るとあからさまに眉をしかめた。


「動く?」

「動かない」


「できるだけのことはするけど……」叔父は首を振った。「まあ、細菌が全身に回ったら、心臓もやられて、命にかかわるからな……」


 叔父は小春を治療室へ連れて行った。

「最近、お母さん、どうだい?」

「帰ってこなかったから……」

「そうか……」


 叔父はがちゃがちゃと、金属器具やら、注射針やら揃えている。

「最近はね、所謂いわゆる、商売あがったりってやつでね……。何せ、銀行は潰れるわ、貨幣価値は暴落するわでね……それに、ここを開業する時の借金が億あってね。億だよ、億、わかる? 円が安くなって、億が安くなったと喜んでたら、引き継いだ連中が、また、なかなか厄介なひとたちでね……普通の紙切れじゃ、とても駄目だっていうんだから、参ったよ……」


 小春の右腕上腕は、黒みがかっていて、感覚がなかった。


 叔父は小春を簡易ベッドに横たわらせると、アルコールの湿布で小春の上腕、黒ずんだ跡の上辺りをさっと拭き、素早く注射針を刺した。


「そのうち、頭がぼうっとするから」

 その言葉が聞こえている間に、小春の頭は目覚めて間もない時のように、朧気おぼろげになった。



 目を覚ました小春には、もう右腕はなかった。



 叔父は治療室にはいなかった。


 切り落とされた腕の先は、縫合されているのか、すり棒のように丸くなっていた。切ったはずの手の平が――そこにはないにもかかわらず――痛かった。まるで、電流を流した万力で押し潰されるような痛みが、そこにはない指先に通っていた。


 切り落とされた腕も、既に治療室にはなかった。


 小春は、左手で何度も右腕のあったはずの場所を撫でた。妙な喪失感があった。

 動かそうとすると、何もない。

 そう、何もないのである。


 もう、この手で、佐和の手を握ることは決してできない……。そう思うと無性に哀しくなった。小春は激烈な痛みとともに、胸のうちを吹きすさぶ喪失感に耐えねばならなかった。


 その喪失感を埋めるように、銃とスマートフォンをベッドの足下の籠から取り出した。それから、叔父を探しに、クリニック内を歩き回った。


 看護師ひとりとていない、閑散とした病院。こんな時でも、病院特有の、アルコールの臭いは消え残っていた。


 大きな冷蔵庫が三つ並んだ前に、叔父はいた。小春が室内に足を踏み入れると、叔父は何故か慌てた。


「ああ……もう起きたのかい?」

「うん……何?」

「いや、なんでもないよ……」


 叔父の様子は確かに不審だったけれど、そこまで気を回している余裕は、小春にはなかった。

「ねえ、変なんだけど。ないはずの腕が、痛くって」

「ああ、それは、幻肢痛げんしつうって言ってね。心理的なものなんだ……。今の状況で、治療するのは難しいね……」

「そう……」


 すると、電話が鳴った。

 叔父は、一層、慌て出した。

「ねえ、私の腕は……?」


 ふと気になったのは、腕をもう一度見れば、この痛みも多少は和らぐかもしれないと考えたからだ。

 叔父は電話を気にするように、受付の方に視線を宙に彷徨わせた。


「ああ、腕……腕ね。腕は、腐るといけないから、冷凍庫に保管してるよ……」

「ふうん……」

 再び、電話が鳴った。


「電話、出なくていいの?」

「あ、ああ、そうだな……」

 どうも妙だった。電話のことを非常に気にしている素振りなのに、何故か電話を取りに行こうとしない。


 再三、電話が鳴った。

「ちょ、ちょっと待っててくれ。ここで……」

 叔父は慌てて部屋を出て行った。


 叔父が出て行ってから、小春は、冷凍庫をひとつずつ開けた。二つの大きな冷凍庫の中に、二体、遺体が入っている……その他には、何も入っていなかった。小春はそっと、叔父の後を追った。


「後にしてもらえないか……。今は、彼女がいるんだ……わかるだろう? こんな話聞かれたら……ああ、必ず、必ず届けるから……。ああ、わかってる、わかってるって。ああ、きっちりと……」

「ねえ、誰?」


 びくりと、叔父の肩が跳ねた。

「それから、届けるって、何を?」

「……いやあ、医療物資だよ。今日、小春に使った器具をね、ほんとはいけないんだけど、こんな時だから再利用するって話で……」


 叔父は、電話の聞こえ口を手で覆って、たどたどしく答えた。

「じゃあ、私の腕を見せて」


 叔父は狼狽うろたえた。

「冷凍庫にはなかったよ」

「いやあ、術後では、切り落とした後の腕なんか、見ない方がいい……。余計、痛くなっちゃうからさ」


「構わないから、見せて。私の腕よ」

「……だからね、痛くなると思って、別の病院にさっき移したんだよ」

「じゃあ、そこに連れてって」


 小春が厳しい口調で言うと、叔父は唇を引き結んで、動きを止めた。それから受話器を置き、無言のまま歩き出した。小春は遅れないように注意して歩いた。左手に、銃を握りしめながら。


 叔父は先ほどの事務室ではなく、裏口の方へと歩いていった。

 裏口の玄関口に、長細い、発砲スチロールの箱があった。丁度、腕が入りそうなくらいの大きさの、白い箱……。

 すると、

「許してくれ! 許してくれ!」


 叔父は突っ伏して謝りだした。

「どうしても、金が必要だったんだ……じゃないと、おれが殺されてしまう……! 今話題の人の右腕なんて、すんごい高価なんだよ……許してくれ!」

 叔父は泣いていた。

「でも、腕を切り落とさないと危なかったのは本当なんだ……わかってくれ……。だから、許してくれ……」


 小春は、叔父を見下ろした。

 こんな大人のために、右腕を失ったのか……こんな大人のために、佐和と手を繋げなくなったのか……。

 小春はやるせなさに震えながら、頭身下げてひれ伏す叔父を、ひたすら見下ろした。


 不意に、小春の頬を、流れてくるものがあった。

 始め、何なのかわからなかった。小春はそれを不思議に思った。あの日以来、どんなことがあっても泣くことはなかった小春は今、自分でも知らず知らず、涙を零していた。わけがわからず、大粒の涙が零れるのが、不思議で、理解できずに、そして無性な悲しみに暮れていた。声も出さず、ただ涙だけが、滝のように流れていった。


 叔父は、そんな小春を呆気に取られて見上げた。

 小春の姿を哀れに思って慰めようとしたのか、叔父は立ち上がって、小春の髪を撫でた。

 開かれた大きな手、ごつく震える、大きな手……。その手つきに、小春は耐えがたい吐き気を覚えた。


 急に、倉庫での出来事がフラッシュバックした。男という、醜い存在……強欲で、性と金と名誉以外に脳のない、最低な人間……。


 小春の目に、叔父の顔と、あの強姦どもの顔が、だぶって見えた。


   *


 右腕を失った、全身血まみれの小春が車に戻ってくると、真也は一言、済まなかった、と言った。


 小春は何も答えず、車の中で震えていた。

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