第四章 誰が為に 五話

「恵津子がVTuberを始めたのは、中三くらいの時かな……。あの気丈さはさ、自信のなさの裏返しなんだよ」


 ドーム中央には、アリーナの半分を占める円形の舞台が設置されている。小春たちの観客席はアリーナ寄りの五分の一ほどの位置にあり、白い舞台上が良く見えた。


「恵津子は、自分の容姿も、顔も、性格も、名前も、全部、嫌いで……恵津子って名前、なんだか古臭いってね。演劇やってたでしょ、彼女。それも、別の自分を演じれるからだって。でも演劇でやっていくには、彼女の容姿が、演劇向きじゃなかったらしい。それで一層、彼女は彼女自身のことを嫌いになってね、それで始めたんだよ、全部別の存在になれるからって」

「ふうん……」

 小春は、あの電車の中で、動画の話を大仰に語る潤のことを彼女が心底軽蔑していたのを思い出した。


「それがこんなことにまでなるなんてね……だから、恵津子が、『英雄』って呼ばれてる君のことをああだこうだは、言わないんじゃない? 彼女自身が、もうとんでもないところに行ってしまったから」


 いよいよ開催まで僅かという段になると、会場の興奮はたぎり、黄色い火花がドームの右から左へ吹き回っていた……まるで目に見えない油が注がれて、参加者の歓声に、吐く息に、発する熱に、色が付いたかのようである。


 こうなるともう参加者は観客へと変貌し、日々の闘争を忘れた歓楽者でしかない。


 荒れ狂う熱狂を、小春が恐々として眺めていると、すぐ傍を観客席前方へと歩いていく男女二つの姿があった。

 小春の目が自然と吸い寄せられたのはおそらく、周りの熱狂に反して、やたらと周囲を気にかけ、青い空気をまとっていたからだろう。

 二人は分け入るように前へ、前へと進んでいった。その様子を観察していた小春は、ふと、二人の顔に見覚えがある気がした。


 いったいどこで見たのか思い出そうとしていると、突如耳の中で破裂した花火の音で意識が途切れた。セレモニー開催の合図だった。


「諸君……」


 瞬間的に湧いた感嘆と歓声を、拡張された低い声が、押し留める。


 マイクの音は、ドーム中央の舞台上から拡散されていた。その舞台上を、ドーム上部に据えられた巨大なスクリーンが映し出している。


 その舞台には、ひとつのマイク台と、二人の人影。


 もちろん、あの男と、そして、佐和……。


 あの男は今日も全身を黒に覆い、長い髪を垂らし、そして佐和はその後ろで、ほんのりと顔を作っているらしく、ラメが小さく光っている。


 ずいぶん久しぶりのように思える、佐和の姿……その姿が、手を伸ばせば届く距離にいる……。小春は、この距離が憎たらしかった……足を使えば僅か数分で走破できる、この短い距離……。


 佐和の顔に見入っていた小春の意識を、あの男の声が、呼び戻した。

「今は、何も言うことはない……われわれを好く者も、疎む者も、今は余興を楽しんでほしい」


 あっけなく、あの男の挨拶は終わった。


 すると、舞台上が燃え上がった。炎が視界いっぱいに広がり、それを割くように青白いレーザーライトが迸る。民衆が驚く前で、舞台は急速に静まり返った。


 舞台上では、そのさらに中央が青暗く映し出され、そこでひとつの姿が舞っている。中東の舞踊――全身はマゼンタ、顔を覆う同色のベール――に身をまとった、ひとりの女性。


 スクリーンには、魅惑な格好をしたメシアンの姿が映し出され、舞台の踊りに合わせて、メシアンも踊る。恵津子はテノールで歌い出した。澄んだ歌声が、レーザーライトを束ね上げる。そのプリズムの欠片が観客席に降り出すと、歓楽者たちは大歓声で爆発した。


 小春は、僅かな驚きとともに、妖艶ようえんに舞う恵津子の姿を目で追っていた。恵津子の周りで南米の見目鮮やかな蝶の鱗粉が周囲を漂い、ステップはしぎのごとく軽やかに、全身の動きは円を華麗に描いている……。


 すると、唐突に気が付いた――確かに、それは唐突な気付きだった。あるいは、恵津子から連想したのかもしれない。小春は急いで視線を巡らせた。しかし、傍を通っていった二人の姿はもうなかった。


 小春は隣で腕を組んで舞台を眺めている真也に小声で、けれど早口に伝えた。

「まずいよ……あの二人、痴漢騒動の二人だよ」

「え? なんだって?」

「さっき、男女の二人組が傍を通って行ったの。その二人が、痴漢騒動の時の二人だって!」


 それを耳にした真也の顔がさっと青くなった。


 が、その時にはもう遅かった。


 座席斜め前方で、舞台の狂乱とは別の騒々しさが、突如、沸き起こった。立て続けに、銃声が二発……そして悲鳴が沸いた……しかしそれ以上に巨大な会場の狂気に飲み込まれて、銃声も悲鳴も、遠くの海鳴りのように会場から忘却された。


 周囲の者は銃声の方に注意を削がれ、他の観客は気づきもしない中、小春は、観客席を乗り越えて舞台の方へ突き進んでいく、ひとつの影を見た。同時に、先ほどと同じ、座席斜め前方で、再び銃声が鳴った。


 もう何をするにも手遅れな中、舞台に手をかけたひとつの姿に、観客がようやく気が付いた。


 妙なざわめきが会場中を駆け巡る。


 恵津子も、気が付いたらしかった。

 ほんの一瞬、動きが止まり、スクリーン上のメシアンの姿がぶれた。けれど、恵津子は踊るのを止めなかった。

 むしろ一層激しく、華麗に踊り、大きな声で歌い出した。


 それを見た観客は、襲撃者のことを、余興のひとつだと捉えたのだろう、一層、歓声を大きくした――その歓声が、一発の銃声で、その銃弾によって恵津子の姿がふらふらと回り出すことで、静まり返った。


 死の線が宙を貫いた――その延長線上にあった恵津子の身体は、煌びやかなブラジャーから露出している腹にかけて、真っ赤に染まった。


 恵津子は、撃たれてもしばらく、踊り続けた。

 まるで、慣性によって駒が回り続けるように、くるくると、血をまき散らしながら……もう一発の銃声とともに、恵津子の身体は糸が切れたように倒れた。


 スクリーンが映し出すのが、動きを不自然に停止したメシアンから、襲撃者の顔へと変わった。その顔は、確かに、痴漢騒動の時、痴漢被害を叫んだ――おそらく冤罪えんざいのでっち上げ詐欺の――女性の顔だった。


 事態を飲み込むのに時間がかかっていた観客も、ようやく理解したらしい、会場中が爆発した。


 その直後、銃声とともに、小春の前の人垣が割れ、あっ、と思う間もなく小春は弾き飛ばされた。

 右腕に痛みはなかったが、衝撃で脳が激しく揺さぶられた。吹き飛ぶ視界の中で、銃を頭上に振り回し、群集を強引に掻き分けて観客席後方のゲートへと飛び込む後ろ姿が見えた。その後を、捕まえろと怒鳴りながら、幾人も追いかけていく。


 会場中央は混沌だった。


 観客席の前列から、幾百、幾千もの観客が、アリーナの敷居を乗り越えて、雄叫びを上げながら、舞台へと雪崩れ込もうとしていた。スクリーンは怒り狂った群集にたじろぐ襲撃者の姿を映し出している。


「殺すな!」

 耳を割るほどのマイクの大音声が、場内の喧騒を貫いた。あの男の声が、がんがんと耳と脳を揺らす。


「その女は公安警察の人間だ。殺させるな!」

 その声で、観客たちは再び勢いを増して殺到した。女はさっ、と拳銃をこめかみに当て、引き金を引こうとした……その手が震え、撃てないでいるのが、スクリーン上でアップになる。その僅かな間に、女の姿は人波に浚われた。


「悲しい、非常に悲しい事が起こった……」

 スクリーンはいつの間にか、あの男の姿に変わっている。


 恵津子の遺体は、無数の手によって支えられ、舞台の中央へと運ばれた。

 血が観客たちの間に細い線を刻んでいくが、観客たちは少しも頓着せず、恵津子を支えていた。


「決して、忘れはしない」

 あの男の顔は、陰になって、よく見えない。しかし、観客の多くには、その暗さが悲しみと映ったことだろう。


 恵津子の身体が、ゆっくりと、舞台上へ下ろされた。

「彼女は、権力と不正義に殺されたのだ。私は、決して、無駄にはしない……」


 あの男の声は震えていた。

「無駄にはしないぞ……」


 そして、言い放った。

「『歯車』は、今を以て宣言する……われわれは、警察並びに自衛隊に、全面的に宣戦布告する! 偽政者どもを捕まえて、必ずこの世界を、取り戻してみせよう」


 舞台に雪崩れ込んだ観客が、叫びを上げた。それに触発されて、観客席で事態を遠巻きに眺めていた観客たちも、歓声の渦に呑み込まれた。


 叫びは、止まなかった。世界が地獄の底から叫んだかのような熱狂に、その宣言に眉をしかめていた者たちまで、次第に歓声を上げ始めた。


 小春は唖然あぜんとして、場内を見渡すことしかできなかった。


 大勢は決したのだ。

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