第三章 ユエと結え 一話

 ふと気が付くと、世界中が白かった。

 天井の白さで、全身は柔らかい腕に抱かれている……ああ、やっと夢が覚めたか、そうぼんやり思いながら、ようやっと鮮明になった真っ白な視界の中で、小春はベッドに横たわっていた。


 ベッドの両側は、やはり白のカーテンに仕切られていて、その向こうから金物が小気味の良い音を立てている。


 小春はのそりと身体を起こそうとした……つい習慣で体重をかけたせいで、右腕が激烈に痛み、急いで左腕に重心を移した。


 注意を向けるだけで、痛みが腕を煮込み出す。

 そのくせ、ロボットのアームにでもなったように、思うように動かない。上腕には、血が止まるほど包帯がきつく巻き付いていた。小春がじろじろと慣れないものを観察していると、ふと、カーテンの向こうから聞こえていた音が止まっているのに気が付いた。


 はっ、として、小春は反射的に銃を探した。その視線が、カーテンの上部でぬうっと小春を見下ろす視線とぶつかった。


「目、覚めたん?」


 その声が知己ちきに話しかけるように気さくだったので、小春は動きを止め、まじまじと男を見返した。


 若い男だった。


 目を見張るほど、背が高い。まだ大学生か、そこらだろう。黒く、短い髪をしている。充血した目が白い顔の中でやたらと際立って見える……他に、特に目につくところもない。


 男は赤ん坊をあやすオモチャのように、からからと音を立てて笑った。男は顔を一度引っ込めると、すぐにまた顔を出した。


「調子は……まあ大丈夫そうやな。心配せんでも、君のんはそこよ」


 男は小春の頭の上を指した。小春は慌てて振り向こうと、またも右腕に体重をかけて、激痛でうめいた。

「そんな慌てんでも、銃は翼生えて飛んでったりせんよ。もっとも、翼が生えて飛んできたのかもしれんけど」


 右腕の激痛を押して、ベッドの頭の上に置かれた銃を懐に抱えると、ようやっと小春は胸を撫で下ろした。


 男は苦笑いした。

「君、なんか聞きたいことある?」


 男はいまだ、カーテンから顔をのぞかせるだけだった。小春は黙って、男を見つめた。

「そんな睨まんでも」男は再び、苦笑した。


「ここは?」


「おれらの本拠地、と言ったらええんかな。それともこうかいな、元高専の保健室。それとも東京? 日本? 地球上? 何を聞きたいん? 銀河系の名前は流石に詳しく知らんで」


「台東区ですか?」


「いんや、一応荒川区……のはず。ま、君のいたところから大して離れちゃおらんよ。君が干物のようにぶっ倒れとったスーパーからは」


「あなたは誰ですか?」


「いい加減、警戒解いてもバチあたらんと思うで。仮にも自分の身を救ってくれた相手には」


「今のご時世、人以上に信用できないものはありませんから」

 小春がそう答えた時、がちゃりと音がして、新しく入ってくる者があった。


「おや、これはまたずいぶん勇ましい戦士を僕らは救い上げたらしいね。それとも、テロリストかな?」

 背は高過ぎず、低過ぎもしない。長く、カールが一巻きした黒髪、すっきりと通った鼻筋に、僅かに黒みが混じった灰色の瞳……方言を話す男と歳の差はさほどなさそうだが、妙な落ち着きがある。

 男は手にグラスを二つ、持っていた。


「なあ、ユエ、ここは荒川区になんねんな?」


「ははあ、なるほど。君たちはまだ自己紹介もしてないんだね。それじゃあここにいても、あまり気も休まらなかったろうね」

 ユエが歩くたんびに、暗い赤コートが床をさらった。


 ユエがグラスの水を揺らすと、小春は自然と、目が引き寄せられた。

「それに……ご覧、ゼン。彼女はとても喉が渇いている。まあそれも致し方なしさ、何せ半日以上も眠っていたんだから」


 ユエは小春にコップを差し出した。小春はじっと透明な液体を見た。

「毒を入れるくらいなら、君を助けたりはしないだろう?」


 小春はコップを左手で受け取った。慣れない手では、コップを持ち続けることさえもぐらついた。


「では乾杯しよう、この社会――資本主義社会、格差社会、学力社会のために」

 その言葉――特に、最後の言葉を耳に入れ、小春は傾けかけていたグラスを下ろした。しばらく考えてから、そっと、グラスをベッドの頭の上に置いた。


「ごめんなさい。感謝はしてます。けど、一緒に飲むことはできません」


「なんとまあ!」ユエは大げさに驚いて、ゼンを見やった。

「聞いたかい? 彼女はあんなにも物欲しそうな顔して私のグラスを目で追っていたのに、かたくなに己の信条と格律かくりつに従っている。彼女こそ、自律的人間というのに相応ふさわしいじゃあないか。われわれが同じ状況に置かれた時、同じように行動できるものがいったい何人いるかね?」


 それから小春の方に向き直って、

「ただし、君は今あまりに誠実に、そして不注意に語り過ぎたね。私は何も、この社会を守るため、取り戻すため、そんなことは言っていない。ただ、この社会のために、と言っただけさ。私の心のうちは、あるいは君と似たものかもしれないよ。もっとも、今の場合は、むしろその誠実さと不注意さにこそ、君は救われるかもしれない」


 ユエは再び、グラスを掲げた。

「ともあれ、今はその水を飲んだらいいさ。こんな誠実な人間が一人救われたというのは、喜ばしいことなのだから」


 促されて、釈然としないものを感じながらも、瞬く間に小春はコップの水を飲み干した。


 水を飲んで落ち着いた小春は、ふと思い出して、慌ててスマートフォンを探した。ベッドの左側に小さな物入れがあり、財布や鍵と一緒に入っていた。小春は飛びついて佐和からの連絡を確認した。


 小春は大いなる絶望感に打ちひしがれた。佐和からの連絡がなかったからではもちろんない。佐和からの連絡がないだろうとは当然、想像がついている。そうではなく、佐和のことがすっかり念頭になかったのが、我ながら、あまりにもショックだった。


 ユエは細い目をして、小春の行動の始終を観察していた。

「その傷の処置をしたのはこのゼンだよ。彼は元医学生でね。今はわれわれの救護や衛生管理を主に統括してくれている。彼がいなければ、君の腕は正真正銘干物になっていたかもしれないよ」


「言うても、おれは学部の四年やったから、ほんの応急処置に過ぎんよ。まあ弾が貫通しとったんが不幸の幸い、ちゃんとした設備で、ちゃんとした人に早よ看てもらった方がええわ。こんな時に、そんな人がおればやけど。このまま放置すると……まあ、良くはないな、それも結構な」


「ありがとうございます」小春は礼を言った。「これほどきつく締めていただいて」

 実際、あんまりきつく縛ってあったものだから、かえって壊死しないかと小春が心配するほどなのだった。

「口の減らんやつや!」


「まあまあ、元気なのは良いことさ、元気でないよりは。特に、情勢がこんな時だったらなおさらね。医者の手配は考えよう、済ますべきことを済ました上で。病人を無理強いさせるようで申し訳ないけれど、君にも来てもらわないと」


 ユエはカーテンの方へ消えた。すぐに出てきた。「ああ、そうだった。君の名前は?」


「えーと……」小春は言い淀んだ。「サラです」


 ユエはにやりと笑った。


「よろしくサラ。それから、ここでは男女上下を気にしなくて良いよ。つまり、敬語はいらない。せっかく世界が脱ぎ捨てようとしているのに、わざわざ古着にしがみつくことはないだろう?」

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