第二章 サイレントナイト 十六話

 行きつけのスーパーは、すっかり模様替えをしていた。


 店舗の窓ガラスは、いつの間にやら剣山の連邦を生やし(つまりことごとく割られ)、駐車している車は持ち主を失い、ドアまでも失い、もはや満足な走りは望むべくもない。


 店内に恐る恐る足を踏み入れると、むっとする酸味がかった臭いが小春の鼻を襲った。

 小春が思わず両手で鼻を覆うほどで、塞いだ指の隙間から吐き気を催す臭気が忍び込んでくる。


 視界で、赤や緑や白が奔放に踊り回っている。


 トマトは赤の絵の具へと変身し、菊にレタスにキュウリ、その他あらゆる野菜がミキサーにかけられたような大騒ぎ、らっきょうは発狂、キャベツは破裂、にんじんは珍事に悶えている……極めつけは豆腐や納豆が腐った上になお腐って、ヘドロのような有様だった。


 小春はすぐ、右に曲がった。

 その先には保存の利く、パンや乾燥麺類、カップ食品や菓子類などの売り場があるはずだった。


 真っ直ぐ進んだ先の生もの売り場へおもむいたとすれば、いったいどれほどの腐乱と狂乱を目にすることだろう。想像するだに吐き気がした。


 果たしてその先には、予想のついていたものと、ついていなかったものと、両方あった。


 ひとつは、パンが置かれている代わりに、手足を投げ出して乾燥した人間の死体。


 もうひとつは、その死体をどかしながら残飯……もとい残パンを漁る、生きた人間。


 小春ははたと立ち止まり、そっと、ポケットに手を伸ばした。


 男だった。


 中肉中背の、よれたスーツを着た男。小春に背中を向け、死体を両腕で抱え上げようと、鼻息を荒くして作業に没頭している……。いまだ男が小春に気付いた様子はない。


 小春の指が銃に触れた……小春は僅かに躊躇ためらった。

 その瞬間、男が死体を落とした。


 その音に驚いて、小春は思わず、あっ、と声を上げてしまった……男の動きは素早かった。


 小春の声に反応して、勢いよく振り向いた男は、振り向きざまに銃を撃った……小春の右腕が強引に引っ張られる感覚があった。

 途端、右腕は鉛のように重たくなった。


 確かに、小春の右腕は撃たれていた。


 上腕の真ん中辺りから、物凄い量の血があふれ、右腕全体を真っ赤にしていた。

 出血を認識すると、途端に激痛が襲いかかってきた。


 無理矢理、腕を真っ二つに裂かれるような激痛が走る。


 血液という血液が、内側から暴れているようだった。


 歯を食いしばり、反射的に左手で右腕を押さえた。声が漏れなかったのが奇跡だろう。

 しかし、銃口がきらりと光るのに気付き、ぱっ、と身を反らせていなければ、小春は胸を射貫かれていたかもしれない。


 あんまりにもぞっとするような痛みだった。左手はぬるぬると滑り、今まさに大量の血液が失われているということを否応にも知らしめた。

 小春の胸のうちを、ひやりと冷たい手が包んだ。本能的な恐怖におののき、半ば泣きそうになっていると、男は言った。


「なんだ、女の子か……それもまだ大学生にもなってないな……?」


 小春には、よくよく男を確認するだけの余裕はなかった。けれどその声には、どこか聞き覚えがあった。


「悪いね……こっちも、やらないわけにはいかないんだからさ……」

 男は、銃口を小春に向け、視界に絶えず小春を入れるようにしながら、転がった死体を蹴飛ばした。


「チッ……こいつ持ってないんか……ったく、この辺りは臭くってしょうがない」


 その言葉で、小春は、はっ、と思い当たった。


 絶望的な痛みの中を押し通し、朦朧もうろうとする視界の中で、しきりに目をこらした。

 するとやはり、あの日、ホームレスを悪し様に言っていたわし鼻のサラリーマンのように見える。


「君、銃持ってるか……? 持ってたら、こっち寄越よこしな」

 男は少しずつ、近づいてきた。銀色に輝く銃口を向けながら……。


 考えてみれば、この男も小春と同じ駅を利用しているのだ。こうして遭遇したとしても不思議はなかった。


「……なあに、撃たないから。そんな恐がることないって……。ほら、君が持ってると、こっちだっておめおめ気を許せないじゃないの。


 おれは、別に君を撃とうなんて思っちゃいないんだ。できれば、手だって、貸してやりたいって思ってるんだぞ。……それにしても君……」


 あと数歩の距離まで近づいた男は、小春の顔を良く覗き込もうとするように、上体を前へ傾けた。男の目が、値踏みするように薄く細められたのが、小春にはわかった。


「中学か高校か知らんけど、君じゃ、まだ知らないだろうね、おれ、コンサルっていう仕事やってんの、むっちゃ高給でね……なあ、うち来ないか……?


 誤解しないでくれよ、その腕を、今すぐ治療してやろうってのさ。撃ったお詫びにってことでもないけど……なにせ今このご時勢じゃ、ちょっとやそっとの金じゃ、看てくれないだろうからさ。


 医者も、命が惜しいからな……信用おけるやつじゃないと、看てくれないのよ。金と地位と肩書きがしっかりあって、信用のおけるやつじゃないとね……。


 だからついでに、うちにも寄っておいでって話だよ……防犯もしっかりしてるしすぐ近くで広いし……今後、一層、重要だぞ、金。金だけが、身を守ってくれるからな……。


 それに君、ひとりでこんなとこまで来るとこ見ると、おつかいってわけじゃないだろう……? もしおつかいなら、それこそ、こんなご時勢でおつかいさせる親の元になんかいるもんじゃないぜ」


 今度こそ、小春は躊躇ためらわなかった。


 あと、二、三歩の距離までやってきた男の目が一層、薄く細められ、その腕が伸びた――その手を掻い潜って、小春は右に跳んだ。


 しかし、右腕の痛みが再度、激しく襲いかかり、小春は呻き声を上げ、右腕が地面に引っ張られたように倒れた。


 自分の身体の下敷きになった右腕の痛みと、出血、そして頭を床に強く打ち付けた鈍痛で、小春は気を失った。


 その直前、スーパーの入り口から幾人もの人影が、雪崩れ込んでくる幻影を見た。

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