第二章 サイレントナイト 八話


 道の脇に、鈴を逆さにしたような白いスズランが小さく咲いている。


 その傍を、佐和がたたっ、と駆けていく。その花と同じく、白いワンピースをひらりと舞わせながら。


 佐和は道の向こうへ駆けて行く……その先には、黒い服に身を包んだ男の姿がある。


 ゆらりと揺れて、柳のような男だ。佐和はスズランを一束摘むと、男に差し出した。

 小春はそれを止めようと思った。スズランには、毒があるのだ。


 止めようと思って、ふと気が付いた。


 スズランが咲くのは五月だ。


   *


 目を覚ますと、窓から差し込む光は白く、もう昼頃だった。

 その懐かしい夢は、ずいぶん前の出来事のような気もすれば、つい最近のような気もした。その夢はとても懐かしく、淡い色で小春の胸に降り注いだ。


 佐和からの連絡がないことを確認してから(小春自身は決して認めようとはしなかったろうが、もう半ば、諦めかけていた)、家中、変わりがないことをやはり確認し、そうして暇になった。本を読んでも良かったのだけど、その気が起きなかった。


 チョコレートをかじりながら、ぼんやりと夢のことを思い出した。


 あれはそう、佐和と一緒に近くのドヤ街を通りかかった時だった。二人で一緒に隅田川すみだがわほとりを歩きに行ったのだ。一ヶ月も前から予定を決めていて、小春はとても楽しみにしていたのだった。


 その時、佐和は、シャッターの前に座っていたひとりの男と話し出した。きっかけが何だったか良く思い出せないけれど、どうやら男と佐和はもともと知り合いらしかった。


「ホームレスと、みんなは呼ぶよ。だから、来ない方がいい」

 男の顔中が髭だらけだったのを、小春は憶えている。


「あなた、疲れてるんだね」

 佐和は言った。


「そうさ。疲れてる。もうずっと、疲れてる」


「私も。私も疲れちゃった」


 男は長い髪の隙間から、じっと佐和を見た。

「世も末だな」


「あなた、言わないんだね。君にはまだまだ未来があるのに、って」


「未来があるか、おれは知らないよ。明日交通事故で死ぬかもしれない。それとも、心にもないことを言って欲しかった?」


「ううん、あなた、そのまんまの方がいい。貧しい人は幸い……」


「君、クリスチャンなの」


「クリスチャン? 知らない。でも、貧しい人は幸いって嘘……金持ちが幸いっていうのも、嘘だと思うけど……」


「普通が幸い?」


「普通は一番不幸」


「じゃあ、何が幸い?」


「わかんない。わかんないけど……」

 佐和はじっと、手元のスズランの花を眺めていた。「でもなんだか、優しくて、話のわかる人ほど、苦しんでるみたい……」


「ずれてるんだろうね、世界の歯車が」


「あなた、やっぱり、とってもいい人よ。これまで会った中で一番いい人。なんで辞めちゃったの……?」


「疲れたからさ」


 小春はその間、佐和の隣で、話を聞くでもなく聞いていた。拳を握りしめ、路上を睨みながら。佐和は時おり、ホームレスの話で泣いていた。


 二人が話し終わった時には、もう陽が暮れかけていた。

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