第二章 サイレントナイト 二話

 もともと、佐倉家にはテレビをつける習慣はなかった。

 家族一家がテレビを信じておらず、馬鹿にさえしていた。


 その小春がテレビを見るに至った過酷な途上(なんと十二年にも及ぶ!)――それはひとえに、受験にるところが大きい。


 朝、目が覚めた小春は、しばらくベッドの上でぐずっていた。

 それは、今日はもう学校がないだろうと推測したからではなく、学年LINEで不穏な情報がはえの大群みたいに飛び交っていたからでもなく、ネットが山火事のように吹き荒れていたからでもなく、佐和からの連絡が一通もなかったという一事に尽きる。


 佐和は無事かという心配から始まり(あれほどの大事があって一晩。着信ひとつなく、既読さえつかないのだから、その心配も仕方のないところではある)、次第に、佐和はもはや、自分のことを少しも気に掛けていないのだろうかと不安が湧いてきた。

 その不安が確信に変わり、哀しみとなり、これほど大切に思っているのにどうして佐和は連絡ひとつくれないのかと怒りが荒れ、ついには絶望が去来する……そしてまた心配、不安、哀しみ……こうして延々と、小春の感情はメビウスの輪に取り込まれていたのである。


 ようやく、安住あんじゅうの地、つまり寝床から抜け出した小春は、何も考えず階下に降りようとした……常のごとく、休日の気分で。


 ドアノブに手を掛け、はっ、と思い出した……習慣たるもの、そのなんたる恐ろしさ!


 銃に飛びつき、すると小春の内側で、緊張が急速に高まった。


 他人の部屋に侵入するかのごとく、恐る恐る、部屋を出る。


 音を立てないよう、細心の注意を払って下に降りた。それから昨日帰った時と同じように、一部屋一部屋、丹念に確かめていく。


 どこにも両親が帰った形跡なく、他の誰かがいた形跡もなく……どうやら昨日、小春が帰った時のままらしかった。


 何事もなかったのを確認すると、やっと一息ついた。そうして泥棒のように自宅を探り回っている自分が馬鹿馬鹿しくなった。


 リビングに戻ると、ソファーに倒れ込む。

 極度の緊張から解放されて、どっと疲れが放出された。そうして暴力的な疲れに浸っていると、無性に腹の空きが小春をさいなんできた。よくよく考えてみれば、昨日の朝から何も食べていない。


 渾身の力を振り絞って立ち上がり、冷蔵庫を開ける。

 残っているのは、牛乳に、卵、ベーコン、チーズにパン、それから大量のチョコレート……。音もなく冷蔵庫を閉め(それと小春のため息は対照的だった)、シンクの下の棚を開けた。


 カップ焼きそばに、カップのそば、カップのうどん、そしてカップラーメン……カップの上にカップが積まれ、これならカップとカップをかけたカップ戦だって開催できる……そんな下らないことを考えながら(それほどに、小春が抱いた失望は大きかった)、小春は棚を閉めた。


 結局、ベーコンと卵を焼き、パンをトーストに差し込んだ。できあがると、さっと平らげた。


 とうとう手持ち無沙汰になった小春は、ソファーの上に放り投げたスマートフォンを見た。佐和からの連絡はなく、スマートフォンは速やかにソファーの上に舞い戻った。小春も一緒にソファーの上に飛び込んだ。


 そのまま、何もしない時間が過ぎた……小春にはすることがなかった。


 最初は大いに喜んで、程なく退屈した。

 長年に渡る勉強と受験が、小春から何もかもを奪ってしまっていた。


『つれづれなるままに、日ぐらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ……(徒然草)』


 事態は、八百年前と変わらない。


 こうして、小春は何年ぶりかに埃の積もったテレビをつけるに至ったのである。

 

   *


 しばらくテレビをつけてわかったのは、テレビ局は昨日の事件のこと、そして銃のことを、ほとんど何も掴めていないか、さもなくば情報の統制が敷かれているということ。

 警察も政府もろくな対応を取れていないらしい、ということ(交番云々とアナウンサーが言っていたけれど、交番は番の交代に忙しく、ろくに機能していないようだった)。

 そして小春はどうもやはり、お尋ね者になってしまったということくらいである。


 小春はテレビに対する評価を下方に大きく修正して、電源を切った。



 小春がため息をついて立ち上がろうとすると、スマートフォンの着信音が鳴った。初期設定のまま変えていないこの軽い音は、LINEに違いなかった。


 獲物を捕えるネコのような恐るべき瞬発力を発揮して、小春はスマートフォンを掴んだ。


 着信は一通のみ。

 緊張して開くと、

「恵津子のことで、話がし……」

 そう書いてあった。


 送り主の名前は垣木真也とあった。

 ロック画面に表示されるメッセージの一部さえ小春は無視し、スマートフォンは軽やかにソファーの上を舞った。

 

 小春がつれづれなる時間を、ソファーの上で天井を眺めながら過ごしていると、段々と、まぶたが重くなって……いつの間にか、ぐっすりと眠り込んでいた。

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