第一章 フラッシュモブ 八話


「佐倉、あんた!」

 恵津子は、怒りに焚き付けられた目で小春を睨むと、素早い動きで銃を小春の胸元へ向けた。

 その手は震えていた。その目は赤く、燃えていた。

 

 小春は静かに見返した。


 恵津子の腕に、真也が手を添える。恵津子の腕はぶるぶると震え、一度、その手を拒んだ――それに伴って、銃は火を吹くかに見えた。しかし、恵津子の手は急にふっと、力を失った。

 恵津子はさめざめと泣き出した。


「まずは……」真也は、硬い顔を小春に向けた。何かを言いかけて口を開く。結局、首を振って、めた。

 真也はかがんで、潤の両瞼を下ろした。


 けれど、小春には、恵津子も、真也のことも、大して気に留まらなかった。そうとも、たった今何をしたのか、その意味さえも、失念するほどだったのだ。


 小春は佐和を見ていた……佐和はきっと、慰めるような、そして僅かに非難するような、悲しみと、優しさでいっぱいの瞳をしているはずだ……あの優しい佐和が、この状況で他のどんな表情を見せることがあろう、そう思っていた。


 ところが、黒玉こくぎょくのような佐和の瞳は、小春を睨んでいたのだった。悔しさと、妬みと、わずかな羨望せんぼうの籠もった光を湛えながら。


 

 いつの間にか、覆面の姿は疎らだった。

 黒ガウンを始め、多くの覆面は隣の車両に移っていったらしかった。百を優に越す累々るいるいとした死体が幾つも山を作っている。乗客の両手は真っ赤に濡れていた。

 覆面が去って、緊張が弛緩しかんしたせいか、何十人もがうずくまって泣いていた。ある者は、死んだ者の傍で。ある者は血の海の中に座り込んで。はたまたある者は、椅子の隅に丸まって。

 それからしばらく、殺人鬼を大量に載せた列車の運行は続いた。

 


 小春たち一行は黙っていた。小春はなんとかして佐和と話がしたいと思っていた……けれど同時に、話しかけるのが恐かった。いずれにしても空気がそれを許さなかった。佐和はひとりで窓の外を眺めていた。その間に、小春は気が付いた。


 最初の、そのまた最初の発端、つまり痴漢騒動の際。あれだけ揉めに揉めていたグレーの男とスーツの女は、今やすっかり沈黙していた。互いの間を妨げるものがないにもかかわらず、魂を抜き取られたかのようにぽつねんとしていたのだ。

 

 少なくとも、スーツの女性は、例のスーツの男性の死体をもう少し気に掛けていても良さそうなものだ。どうやら、彼女らは知り合いであったようなのだから。あるいは、あまりに事が大きくなりすぎて、受け止め切れていないだけかもしれない。


 そうだとすれば、後に彼女を襲う反動は、海溝のように大きく、深いものとなるに違いない。

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