第一章 フラッシュモブ 三話

「あれ……」

 不審で顔面を一杯にし、口を開いたのは恵津子だった。

「なんか、電車、ぜんぜん止まってなくない?」


 恵津子の不審の端が消えやらぬうちに、人で溢れた駅が車窓を流れていった。驚愕と不可解をないぜにした顔が、ぐんぐん後方へ追いやられていく。ホーム上の待ち人たちである。


 呆気に取られ、小春の視線は後方にさらわれた……その視線を引き戻したのは、耳をがむしゃらに引き裂く音。乗客は驚いて身を縮ませた。


 車内のアナウンスだった。

 正確には、マイクのオンとオフの音。

 弦をがむしゃらに引くような、耳に痛いマイク音が入る。それきり、何のアナウンスも流れず、ぼっ、という音を残して、切れた。


 その不可解な事象に乗っかるように、

「嫌あ! 痴漢!」

 叫び声が上がった。



 小春の後ろ、乗客の視線がことごとく注がれる真ん中。

 スーツに身を包んだ若い女性――茶色いどこにでもある髪型、他に特徴的なところはない――が震えている。


 叫んだのは、おそらくこの女性……周囲の乗客はすぐさま、転げるように飛び退ったらしい。女性から距離を取って、他の乗客から「押すなよ」と肘や腰で押し返されていた。わし鼻と細長スーツも女性のすぐ傍で、肘を押しつけ合っていた。


「こいつよ! こいつがお尻触ったんだ!」

 スーツの女性はきっ、と顔を上げる。その恨みの籠もった目で、彼女の右隣に立つ男性を睨み付けた。三十ほどの、細くて、覇気はきの欠けた男性だった。

「ちょ、ちょっとあんた、なに出鱈目でたらめ言ってんの……」

 グレーのオーバーを羽織ったその男は大いに狼狽うろたえて、顔全体を川の字に歪ませている。小春は見た……男性の左手の指先が、男性自身の腰辺りでわさわさと団子虫のようにうごめいていた。

「ほら、その汚らしい指! こいつに決まってるよ! それにこの痴漢しそうな、変態っぽい顔!」


「ああ見た見た、俺も見たぞ、確かに見た! こいつの手が女性の尻のあたりでいやらしく動いてた!」スーツの女性のすぐ後ろで、男性が叫んだ。女性と同じく、スーツに身を包み、如何いかにも真面目なサラリーマン風の男性、二十代後半くらいだろうか。「最低だな、あんた! 犯罪だぞ、電車が混んでるからって、バレないと思ったんだろうな」


 グレーの男の顔が、途端に真っ青になる。

「変態っぽい顔って……。知らないよ、僕は!」グレーの男は、声を震わせて続けた。「僕じゃない、僕じゃないよ! なんで僕がこんな女の尻触らなきゃいけないんだ。どこでだって真面目で通ってきてるのに……」


「こんな女だと? なんて酷いことを! 外道だな」スーツの男が毒づく。

 一向に首を縦に振らないグレーの男に、スーツの男は毅然きぜんとして、高圧的な態度を取り続けた。


「知ってるか? 罪を認めないともっと罪が重くなるぞ。あんた、もう言い逃れできないんだよ。この女性見てみろよ、こんなに震えて可哀相かわいそうに。さぞかし恐かったろうな。ほら、身分証だせよ、警察呼んで引き渡すから!」

 女性は今にも泣き出しそうな顔をしている。


 しかし、それはグレーの男も同じだった。

「ぼ、僕じゃない……僕じゃないって! 冤罪えんざいだ!」

 スーツの男性は肩を張って、全身で腹立たしさを表していた。

「大の大人が、堂々と認めろよ、そんな惨めな姿さらしてないで」

「だって、だって……僕じゃ、僕じゃないんだ」

「見苦しいよあんた」


 スーツの男は殺虫剤に溺れるゴキブリでも眺めるように、グレーの男を見下ろした。グレーの男はもうほとんど泣きながらしゃべっているようだった。小刻みに震えながら、スーツ姿の二人を睨み、歯を食いしばり、目は泥を塗ったように歪んでいる。その左手が、そっと、ポケットのなかに滑り込んだ。


「その手はなんだ! なんか良くないこと企んでるんだろう! ほんとろくでもない人間のクズだ。見せろ!」

 スーツの男は、グレーの男に背の高い身体をぬうっと近づけた。グレーの男は小さく身体を跳ねさせる。その瞬間、ポケットから、ぽとりと、何かが落ちた。


 小春は、はっ、と息を呑んだ。小春のみならず、車内の空気が丸ごと、息を呑んだ音がした。

 それは、銃……小春が今朝ベッドで見つけたものと、瓜二つの銃だった。

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