第一章 フラッシュモブ 二話

「いやあ、ほんと、迷惑な話じゃないの。迷惑千万、計画転換、これじゃ朝練どころか遅刻よ遅刻」

「まあそう言うなよ」

真也しんやは恐ろしいくらい高貴な心をお持ちだよ! だってねえ、二時間だぞ、二時間! 人身事故だろうと人助けだろうと、そりゃあもう、俺たち惨めな囚われの学徒……もとい学生に、冷酷無比な制裁が、学びの園より下されるだろうさ」

「ピーポーピーポーいってたじゃん。かれたんじゃね? 知らんけどさ」

「人身事故で、ひとり死亡……少女? 八歳? ほんとか?」

「事件だったりするかもなあ、少女を殺したのは……実は、少女でした! みたいな」

「事件……まあ、事件だったりもするんじゃね? 知らんけど」

恵津子えつこに言わせれば雨は降ったけど降らなかったし、電車は遅れたけど遅れなかったし、人はかれたけどかれなかったことになるんだろうさ。だってねえ、何言っても語尾につくんだから。『知らんけど』ってね!」

「は? 何? 喧嘩売ってるわけ?」

「いやあ、ほんと自殺すんなら他所よそでしろって話だわ。恵津子がガキみたいに八つ当たりしてくるからやってらんねえよ」

「ウザい。りょう、もうしゃべんなよ。むしろ潤が飛び込めよ」


 朝の車両は、地獄が立ち上がっていた。地獄は顔をほころばせて、忙しく、人々の間を動き回っている。


 命を削る椅子取りゲームが開催されたかと思えば、不機嫌な赤ら顔が唄い上げるのは悪態ばかり。どの視線も周りを射殺いころさんばかりに素早く動く、かすかな接触で罵声が弾け飛ぶ……それが駅に停車する三分毎に繰り返されるのだ。

 おまけに今朝は、顔という顔にしわが深く刻まれて、今にも踊り出しそうになっている。


 けれど、小春の苦悩は乗客とは距離を置いていた。というのも、乗車の流れのおもむくまま、佐和たちとばったり遭遇したのだ。


「いやさ、飛び込もうとしてたのよ? 偉大なる英雄たちの真ん中に。どぼんとさ」

「何? まだ夢見てんの? ああ、白昼夢はくちゅうむってやつね」

「いや、むしろコスチュームよ! 形から入るってね」

「バンドのことか?」

「流石真也! プリン色の恵津子の頭とは大違い! せっかくわざわざ服装揃えて詰め込んできたってのに、あんまりでしょう、これじゃあ」

「最近流行ってるやつ? 最近って、なんだろ……イマドラとか? それか、バンドじゃないけどエド・シーランとか」

「いやー、やっぱドアーズだよ、今の時代」

「ドアーズ? 潤が演るの?」

「へえ! 真也、ドアーズまで知ってんの?」

「ドアーズって、何?」

「恵津子にはまだ早い早い」

「黙れ、あんたに聞いてないよ」

「六十年代、七十年代に活躍したバンドだよ、アメリカの」

「そうそう、酒に女にドラッグよ!」

「そう。潤には手に負えないバンドだよ」


 不運にも小春が佐和たち四人と合流すると、微妙な空気が一帯に通い始めた。


 それまで闊達かったつに話していた佐和たちは、ふっと口をつぐんでしまった。といっても、佐和はもっぱら聞き役で、口を開いた様子はついぞなかったのだが。

 それからすぐ、一瞬生まれた沈黙を無理に埋めようとするかのように、佐和を除いた三人がより威勢よく、話し出した。


 この時の小春のいたたまれなさといったら! 佐和も一緒に黙っているのが、せめてもの救いだった……けれど佐和は佐和で、他の三人の聞き役に徹して、あからさまに小春と顔を合わせないようにしようとしていた。それはそれで、小春の心に冷たく、哀しい霜を降り積もらせた。


「……んで、なんで今の時代、ドアーズなわけ?」

「やっぱねえ、今の時代、他の人がやってることやってもダメなわけ。その点ドアーズは今のトレンドじゃないからさ、ドアーズバンド組んだらいいがな」

「それで、注目集めるって?」

「そ」

「そもそも、それでほんとに注目集まるわけ? 短絡的過ぎじゃんよ」

「ワードがバズればぶっ飛ぶぜ? 世の中案外単純よ。風が吹けば桶屋が儲かるってね」

「それは単純と反対の言い回しだろ」

 真也は呆れたように息を吐くと、ちらっと小春を見た。小春はさっと下を向いた。小春の隣で、潤がギターケースを背負い直すのがわかる。


「それで注目集めて、どうするの? メジャーデビュー狙う?」

「もちろん、YouTubeでどかんと有名になるわけさ」

 政治家を真似た大仰な振る舞いで、潤が揚々ようようと宣言するのを、小春は見た。

「そんでもってドアーズのフラッシュモブでも企画して、一層、どかんってさ」潤は気分が良さそうに続けた。「今人気のさ、メシアン呼んで、集客も倍増……いいがな、メシアンとの共演! でもバーチャルとフラッシュモブ企画すんのってどうやんのかね。そういや恵津子、昔演劇やってたっしょ? PV出演、やっちゃう?」


 小春は視線をさらに上げた。よくもまあ、そんな荒唐無稽こうとうむけいなことを堂々と言ってのけられるものだ……いっそ感心しそうにさえなった小春の前で、恵津子の顔がみるみる歪んでいった。


 潤はおろか、真也や佐和までもが、息を呑んだ……恵津子の瞳は、侮蔑に縁取られていた。

 そこでちらくつのは、地の底まで見下すような強烈な眼光。


「……ほんとアホくさ。信じられん。クソだわ。クソ。ほんとクソ」

 唾を吐くように、恵津子は言った。それまでのやり取りが冗談交じりに過ぎなかったと、誰の目にも悟らせる……それほどに毒々しい、言葉に含まれた、露骨な感情。


 駅に停車して、乗客が地獄を追われた咎人とがびとたちのように慌ただしく降りていき、同じ量だけ投入された。その最中さなか、腕だか肩だかがぶつかったらしい……老嬢の怒声が車内を貫いた。


「ほら、佐和も見てる前で、そんなアホ丸出しのこと言っていいわけ? もう少しましなこと言いなよ……」

 そっぽを向いて、恵津子は言った。どこか、恥じ入る様子だった。


 潤は何かを言おうとしたらしく、口を開いた。すぐに閉じた。口をパクパクさせて、ちらちらと恵津子を見、真也を見、佐和を見、小春の方まで見て、もう一度、恵津子を見た。


 結局、何も言わなかった潤に助け船を出すように、これまで一度も口を利かなかった佐和が口を開いた。

「まあ、こんな日もあるよね……。今日は、なんだか変な日だからさ……」

 どこか含みを持った言い方をすると、今日初めて、佐和は小春のことを見た。


 それは小春にとって、喜ばしい瞬間のはずだった。

 ところが、いざ佐和と目を合わしてみると、どうにも不可解に落ち着かなくなってしまった。佐和の目は大方、いつもの優しさを備えてはいた。けれど、ちらちらと、小春の知らない色が垣間見えた気がしたのだ。


「ほんとに、事件かもね……それも、すごく、大それた事件」

 佐和は窓の外を見た。誤魔化すようなその素振りに、小春の不可解は増しに増し、胸のうちはざわめいた。


「変って言えばさ」

 恵津子の言葉で、小春の動揺がほんの僅か、さえぎられる。

「うち、今日、変な夢見たんよね」

 途端、潤が勢いを盛り返す。

「そうそう、おれもおれも。なんていうの? 変っていうかねえ……いや、変っていうか、なんていうか……。なんて言うん?」

「知らんわ」

 唾を吐くように恵津子が言う。

 佐和が二人の顔をうかがいながら、

「なんか気になるような……」

「そうそう、それよ、それ! さすが佐和ちゃん」

「気になる夢って言えば、確か、小説にあったな……カフカって人の……」

 真也が言いかけた、その瞬間のことだった。

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