第32話「労働時間外」

 日が暮れ、オレンジ色の照明に照らされている第一王立学園の屋上。

 ロイ専属メイド、ネメシアは背筋をぐーっと伸ばしてその場にしゃがみ込んでいた。

 しかし、今彼女の姿はメイド服ではない。

 おしゃれな普段着に身を包み、街を歩いていても何らおかしくはないただの若者。

 、とは言っても街では浮いてしまうレベルの美貌を兼ね備えているのがネメシアだ。


「ふぁ~あ」


 セミロングの黒髪で清楚な印象を孕んだ彼女。

 大きなまん丸の黒目は雲がゆらゆらと動く空をずっと眺めていた。

 普段の仕事中に欠伸など決してしない彼女は、突如呼び出されたことにより体と心は簡単には仕事モードに切り替えられない。


「万が一がある、か。 相変わらず、用心深いなあロイ君は」


 彼女の仕事はメイド。

 常に主のことを思い、全ては主のために行動する。

 主に危機が及ぶなら全力で阻止し、主のためなら命だって落とす。

 そんな覚悟を持っているのがロイ専属メイドの宿命。


 しかし、その心持ちなのは仕事中のときだけ。

 今の彼女は仕事中ではない。

 仕事とプライベートをはっきりと分けているタイプの彼女、だから「ロイ」と呟き堂々と欠伸をしているのだ。

 

「私が来たところで戦えないけど、ヒマワリとイドリスが来るまでの時間稼ぎぐらいはできるかな」


 ネメシアは空を見上げるのをやめ、屋上のペントハウスからぴょいっと飛び降りた。


 それと同時に空から何かが来る。

 ネメシアは空から降ってくる異質な魔力に恐怖心などはなかったが、面倒くさいという言葉はすぐに浮かんでしまった。

 悪い予感が的中してしまったような、そのモヤモヤが心に暗雲を立ち込める。


「おや、先客がいましたか」


 空から降ってきたのは、黒いスーツに身を纏った男。

 スタイルが良く、手足も長い。

 体だけ見ても格好良いともてはやされてもおかしくはない。

 だが、男の顔を見れば格好良いという言葉は喉奥にぐっとしまわれ代わりに疑問符が頭に湧いてくることだろう。 


 その男の顔は派手なヴェネチアンマスクで隠されていた。

 顔のパーツで見えているのは口のみで、それ以外の情報は全く取得することができない。


「第一王立学園に何か御用?」

 

 ただネメシアはそんなスタイルの良い黒スーツの男を見てもときめく様子はない。

 微笑を浮かべて敵を煽るが、敵もまた平気な顔をして笑みを浮かべている。


「何か爆発事件があると聞いたので」


「野次馬にしては、入ってくる場所おかしくない?」


「すみません、この世界には疎いものですから」


「ふ~ん、こてこてな人間の見た目してそんな中二病みたいなこと言わないでよ」


 ネメシアは肩からかけていたセカンドバッグから黒塗りの拳銃を取り出し、銃口を男の脳天に向けた。

 相手が人間であればこんなことはしない。

 仕事中であって主人の危険が及ぶとき以外は無駄な戦闘をしないのがアルフレッド家のメイドの教え。


 では、主人が危険ではないときに彼女たちが戦う理由はたった一つ。

 己の身を守るため。


「そんなおもちゃで私を殺せるとでも?」


「どうかな。 私のスキルが銃を強化できるものだったらどうする?」


 ネメシアの前に立つ男は異様な魔力を纏っている。

 殺意はなくとも近くにいるだけで、男の危険性を体が察知していた。

 だから彼女は迷うことなく銃を向けているのだ。


 ネメシアがふっと笑った瞬間に引き金を引いた。

 彼女が銃を放った間は完璧なタイミングと言える。

 暗殺技術を会得している彼女にとって、相手の呼吸や表情、間。

 相手が油断したタイミングを熟知しているからこそのタイミング。

 一朝一夕では取得できない、技術。


「……物騒ですね」


 完璧な間で放たれた銃弾を軽々しく指で掴んだ男。

 うっすらと笑う唇がより男を不気味という言葉を似つかわしくする。


「あなた誰?」


「私はサソリ。 アノロス幹部スネーク様の部下です」


 アノロス、という言葉に眉を少しだけ動かしたネメシア。

 その言葉は彼女にとっても、ロイ専属メイドの彼女らにとっても切り離すことはできない言葉。

 

 しかし、ネメシアは眉を動かしたこと以外は平然な態度で言葉を発する。


「あ~、あのカルト集団か。 いいの、そんなペラペラと喋って」


「ええ問題ありません。 ここであなたを殺すので」


 笑顔の男は瞬間的にネメシアの前に立ち、ピースの形を作って彼女の目を襲おうとした。


 上半身が床に付きそうなほど体を反らしたネメシア。

 その勢いのまま両手を地面につけてバク宙を試み、遅れて上がってくる両足でサソリの顎を狙う。


 サソリはそれを瞬時に顔を背けて避け、顎を狙った脚を掴んで軽々とネメシアを屋上のフェンスに向かって投げた。


「うわっ!」


 屋上のフェンスに勢いよくぶつかったネメシア。

 クッションの代わりとなった堅いフェンスはぐにゅっりと曲がり、彼女の体へのダメージがしっかりと現れている。


「は~あ、私時間外労働なんだけどな。 あとでちゃんとロイ君に請求しとかないと」


 もうすぐ日没。

 徐々に暗闇が増えていく時間帯で、ネメシアは溜息を漏らす。

 先ほどまで休日の楽しい買いものをしていたのにと、心の中で悔しがる。


「時間帯的にヒマワリ来てもしょうがないかも、これ」


 どうしようかなと笑うネメシア。

 しかし、その表情にどこか余裕もあった。


「お仲間が来るときにはあなたは死んでいますよ」


「ふふ。 冗談はその仮面だけにしといてよ」


 サソリはフェンスにぶつかった状態のネメシアに対して一歩で近づいた。

 長い足をネメシアの顔面に向かって蹴り込む。

 力を十分に溜めて蹴る行為は秒刻みであっても時間がかかる。

 しかし、サソリはまるで溜めを作っていないかのようにして、蹴りを入れていた。


 ネメシアは横に転がって何とか蹴撃を回避。

 ネメシアがいたフェンスは切り裂かれたように、屋上から下に落ちて行く。


「あぶな」


 拳銃を三発サソリに打ち込んだネメシア。

 顔を揺らしてその銃弾を軽々と避け、うっすらと笑いながら長い足でネメシアを斬るような魔力で攻撃する。

 ここまで魔力を使っていなかったネメシアもさすがに我慢の限界のようで、魔力を足に込めサソリとは反対方向に大きく逃げる。

 

 彼女もこんな拳銃の銃撃だけではサソリを殺せないのは知っている。

 しかし、彼女のスキルは戦闘向きではない。

 異質な魔力を持つ危険な相手に対し、スキルを使わず戦うのはいくら戦闘に優れているアルフレッド家のメイドであっても勝てない。


 その事実をサソリも見抜いていることだろう。

 だから、彼もまたスキルを使っていない。

 スキルを使っていない相手ぐらい、スキルを使わずに勝てるという余裕の現れだろうか。


「ふ、戦闘系のスキルも使えないあなたをこんなところに呼ぶなんてあなたのご主人はよっぽど無能なんでしょうねえ」

 

 サソリがニヤッと笑った瞬間、ネメシアの緊張の糸が切れたように魔力が増大していた。


「無能?」


「ええそうでしょうとも。 私が来ることは想定外かもしれませんが、今第一王立学園はテロ行為の真っ最中、そんなところに弱いあなたを配置する理由が全くわかりません」


「……なんにもわかっていないみたいだね」


 ネメシアは静かな声音で言葉を発する。

 怒りを前面に出さないようにと気を回しているようだが、彼女が纏う魔力は怒りを形にしたようにメラメラと彼女の周りに噴出していた。


「私のご主人様はね、なんでもお見通しなのよ。 あなたが来ることも、ここに戦える人物がいないってことも。 だから私が呼ばれたの」


「言っている意味がよくわかりませんが」


「分からなくて結構。 ご主人様が考えていることは、ご主人様しかわからないから」


「そうですか。 ではやはりそのご主人は無能、という事でしょうか」


 ネメシアの魔力が爆発しそうになった瞬間、サソリの横には小さい影のような物体が現れた。

 そしてその小さな影から、白い素肌が露になり拳となってサソリの脇腹に向かって当てられた。

 サソリがその影をフードを着た人物だと認識したときには、既に遅い。


「っ!」


 当たった衝撃によって体を仰け反らし、吹き飛ばされていったサソリ。

 拳銃から放たれた銃弾に反応することはできるが、小柄な少女の一撃を避ける事はできなかったようだ。

 その人物をただの少女をと形容すること自体が間違っているのかもしれないが。


 そして吹き飛ばされた方向にはすらりとした黒いローブを来た人物の姿もサソリの目には見えていた。


のご主人様を侮辱した罪は、重いわよ」


 もう一つの黒い物体黒い傘をサソリに向かって振り下ろす。

 サソリは空を蹴って、なんとかその攻撃を避ける。

 怒涛の連撃、サソリも黒ローブの人物が二人現れたことにより迂闊には動けない状況になってしまった。


 二人がフードを取り銀髪の長い髪と、橙色の髪がさらりと見えた。


「んじゃ、後は頼れる最年長のお姉さんと可愛い最年少の妹に任せよっかな」

 

「ネメシア、最年長は余計よ」


「私だって、体は小さいけど胸はあるもん」


 ぷくーっと頬を膨らませ胸を強調したヒマワリと、ミステリアスな雰囲気を醸し出すイドリス。


 サソリはその両者を見てニヤリと笑みを浮かべる。


「……ふふふふふ、仕方ありませんね。 ボマーはあなたたちに譲るとしましょうか」


「あら、逃げるの?」


 ネメシアからは凄まじい魔力が漏れ出ている。

 隣にいるヒマワリからも同じ量の魔力が溢れ出していた。

 戦闘を起こす気概は十分なようだ。


「ええ、別にボマーがいたところで私どもの計画に支障はありませんから」


 アノロスの陰謀など、彼女たちからすればどうでも良い事だ。

 しかし、ロイに危険が及ぶというのなら話は別。

 全力で彼を守ることこそ彼女の使命であり、仕事なのだから。


「ふふふふ。 またどこかでお会いしましょう、アルフレッドのメイドたち」


「なんだ、知ってるんじゃん」


 ネメシアがそう言うと、男はニヤリと笑ってこの場から消え去った。


 アノロス。

 都市伝説として噂されている国のカルト集団。

 この世界にはびこる全ての悪事の裏には必ずアノロスがいると言われているほどで、アノロスの知名度は高い。

 これが果たして都市伝説止まりなのか、本当に現実世界に存在しているのか。

 サソリがアノロスであるという証拠はどこにもないし、アノロスを偽った犯罪者などごまんといる。


 しかし彼が持っていた魔力はネメシアであっても経験したことのない異質な魔力であった。

 だからこそ、ネメシアは先の男をアノロスと断定していた。

 この現場に現れたという事実に何か裏があると思わざるを得ない。

 何かの脅威が迫っている。

 そんな未来予想図を具体的に描けてしまうほど、サソリの脅威は大きかったのだ。


「というかネメシア、今日休みじゃなかった?」


 一仕事終えたように黒い傘をさしたイドリスが普段着姿の彼女をじっくりと見て質問を投げかけた。


「そうよ。 でもロイ君、じゃなかったロイ様に呼び出されたから仕方なく切り上げてきたわ」


 地面に座りこんだネメシアはどこかけだるげ。

 いつもの休暇からいきなり命がけの戦闘へと様変わりした、体と心への負担は想像以上のはず。


 ロイからここに呼ばれた理由もまだ自分の中に落とし込めていない。

 ロイからの指示は基本ないが、彼が指示を出したときは決まって重要な場面。

 アノロスが来ることなど予知できないはずだが、ロイならもしかしたらと思わせられる。

 

「あの男、アノロスだってさ」


 ネメシアは自身の考え事を反らすようにして、イドリスだけに視線を向けた。

 ヒマワリに伝えたところでわからないだろうというネメシアの判断。

 それになぜか彼女はどこか遠くの世界に思いを馳せている様子、もし彼女に尻尾がついているならぶんぶんと左右に振らしていたことだろう。


「目的は?」


 イドリスは怪訝そうな顔でネメシアを見る。

 ロイ専属メイドの中では最年長のイドリス、自然と彼女はしっかりとしなければならない立場となっているのだ。


「さあね。 ま、ロイ様にとっては良い事が起きたんじゃない?」


「……そうね」


 少しだけ考え込んだイドリス。

 彼女らもまた、ロイに振り回される集団。

 しかし彼の安全を考えなくてはならないメイド。

 彼の楽しみを優先するか、彼の安全を守るべきか。

 その問答にいつも悩まされる彼女たちである。

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